ヤタガラス 研究資料

熊野の歴史

略年表(古代)

西暦 天皇 年号 干支 事項
BC5000〜300頃 縄文前期〜晩期 奥熊野地方で縄文文化が営まれる(熊野速玉大社・有馬・曽根・北山遺跡など)
BC200頃 この頃、秦の始皇帝の命により、徐福が仙薬を求めて熊野に渡来したという
BC100〜AD200 弥生中期〜後期 奥熊野地方で弥生文化が営まれる(阿須賀・佐野・笠島・有馬遺跡など)
200頃 弥生後期 神倉山ゴトビキ岩下に銅鐸が埋納される この頃、熊野本宮社始まるという
200〜300頃 この頃、熊野新宮社始まるという
400頃 古墳中期 那智勝浦町下里で竪穴式石室をもつ前方後円墳が造られる(下里古墳)
400〜500頃 この頃、熊野那智社始まるという。また開山は裸行上人とされる
500〜600頃 古墳後期 串本町や紀伊長島町などで後期古墳が築造される(西ノ岡・横城古墳)
646 孝徳 大化 2. 丙午 熊野地方に国造が置かれていたが、これを廃し紀伊国牟婁郡に編入、郡司が任命される
692 持統 朱鳥 6.5.6 壬辰 紀伊国牟婁郡の阿古志海部河瀬麻呂ら兄弟、贄(※)を国に進上し、諸役を免除される
703 文武 大宝 3.5.9 癸卯 阿提(有田)・飯高(日高)・牟漏(婁)の3郡が、調として銀を献上する
712 元明 和銅 5.1.28 壬子 神武東征軍が大熊の毒で衰退、この時熊野高倉下の神剣で蘇生したという話が収録される
713 和銅 6. 癸丑 木ノ国を紀伊国とする
720 元正 養老 4.5.21 庚申 日本書紀が編纂され、伊弉冊尊が火の神を産んだため焼かれて、熊野有馬村に葬られたという話、素戔鳴尊が熊成峯から根国に入ったという話、少彦名命が熊野之御碕から常世(とこよ)郷に到ったという話、神武東征軍が熊野神邑に到り、高倉下の助力で丹敷戸畔を誅したという話、仁徳天皇の皇后磐之媛が熊野岬に到り、御綱葉(みつながしわ)を採った話などが収録される
746 聖武 天平 18.1.27 丙戌 正三位牟漏女王(栗隅王の孫・美努王の女)が没する
753 孝謙 天平勝宝 5.12.7 癸巳 唐より帰国の遣唐副使吉備真備ら一行の船が、紀伊国牟漏崎に漂着する
766 称徳 天平神護 2.9.24 丙午 速玉神に神封(※)四戸が充てられる。この年、熊野牟須美神にも同様に施入される。この頃、牟漏郡より贄として磯鯛や巻貝を進上する
769 神護景雲 3.4.6 己酉 散事従四位下の位を授けられていた牟漏郡の采女(※)である熊野直広浜が没する
3.5.23 牟婁沙弥(牟婁郡の人、俗姓榎本氏)の家が火災に遭ったが、法華経は焼失せずという
3. 興福寺沙門の永興禅師は熊野村に住み、海辺の人々を教化、南菩薩と尊敬されたという
812 嵯峨 弘仁 3.10.18 壬辰 熊野別当に初めて快慶を任ずるという。以降40代別当定遍まで続くという
859 清和 貞観 1.1.27 己卯 熊野早玉神・熊野坐神、従5位上に進む。天慶3年(940)ともに正一位に進む
868 10.11.3 戊子 慶龍上人、補陀落渡海(※)をしたという。のち平安時代に3回、室町時代に10回、江戸時代に6回の渡海が記される
879 陽成 元慶 3. 己亥 聖宝、吉野より大峰を経て熊野に至る逆峰の抖數路(※)を開いたという
907 醍醐 延喜 7.10.3 丁卯 宇多法皇、切尾湊より船で熊野神社に御幸(御幸の初例)
918 18.10.26 戊寅 参議三善朝臣清行薨去。その子浄蔵、熊野参詣の途中、父の死を予感して帰京したという
927 延長 5. 丁亥 この頃、熊野速玉神社が大社に、熊野坐神社が名神大社に列せられる
969 冷泉・円融 安和 2. 己巳 釈仲算、熊野山那智瀧の下で般若心経を読誦すると、千手千眼の像が現れたという
991 一条 正暦 2. 辛卯 花山法皇那智山御幸翌年も御幸。のち、西国三十三か所観音霊場順拝の創始伝承譚となる。
1000 長保 2. 庚子 熊野別当増皇、熊野修行僧京寿の別当職奪取の策謀を退ける(熊野別当の初出)
1028 後一条 長元 1. 戊辰 金峯山衆徒の大和守、藤原保昌糾弾の強訴に那智山衆徒が呼応する(熊野山衆徒の初出)
1043 後朱雀 4. 癸未 応照法師の那智山火定や熊野・大峯で山岳修行した法華持経者らの逸話が集録される
1070 後三条 延久 2.8.1 庚戌 本宮証誠殿の後の四面廊の御聖躰の間に大峯縁起を置くという
1072 4.9.17 壬子 熊野三山造営のため、駿河を造営料国とする
1080 白河 承暦 4. 庚申 左大臣藤原師通、快深を熊野詣の先達(※)に依頼する(先達の初出)
1081 白河 永保 1.9.21 辛酉 藤原為房、観増を先達に熊野本宮の三所の御殿に参詣。王子社(※)名も初出
1082 白河 永保 2.10.17 壬戌 熊野山僧徒300余人、新宮・那智の御神体・御輿を奉じ、入京し強訴。のち繰り返す
1083 3.9.4 癸亥 三所権現の名称が使われる。この頃までに三山鼎立の連合体の成立が知られるという
1086 応徳 3.11.13 丙寅 尚侍藤原氏、在田郡比呂荘(広川町)宮前荘(有田市)を熊野権現に施入。のち寄進続く
1090 堀河 寛治 4.1.22 庚午 白河上皇、初めて熊野に御幸。この御幸に伴い紀伊国二郡の田畠100余町熊野山に寄進
4.2.26 熊野別当長快を法橋(※)に叙する。僧鋼補任の初例。以降40代定遍まで続くという
4. 法務前大僧正増誉、白河上皇の御幸先達の功により熊野三山検校職につく。この職の始め
1094 8.1.27 甲戌 木本(息長)宮貞、志摩国木本御厨の検校・山預職に任ぜられる
1096 堀河 永長 1.3.10 丙子 熊野本宮焼亡。のち三山に多くの災害が発生するが、再建が繰返される
1103 康和 5.3.11 癸未 僧正増誉、洛東白川辺に熊野新宮の御霊を祀る。その後、熊野三山が各地に分祀される
1109 鳥羽 天仁 2.10 己丑 権大納言藤原宗忠、熊野三山に参詣。新宮で御師(※)の宿坊に泊まる。御師の初出
1119 元永 2. 己亥 白河上皇、熊野山に紀伊・阿波・讃岐・伊予・土佐5か国各10烟、計50烟を寄せる
1121 保安 2.10 辛丑 沙門良勝ら、大般若経600巻を熊野本宮に埋納。のち三山に多くの経典埋納が行われる
1125 崇徳 天治 2.11.9 乙巳 白河上皇・鳥羽上皇・待賢門院、熊野に御幸。上皇は以降21回御幸。女院の御幸多数
1129 大治 4.11.20 己酉 熊野新宮の僧徒、高野山の民と合戦し、新宮側の4人が殺傷される
1130 5.9.26 庚戌 沙門行誉、那智山瀧本近くの金経門に経塚を造営。金銅仏・密教大壇具なども多彩に埋納
1134 長承 3. 甲寅 鳥羽上皇本宮で住僧と客僧に各100石の僧供米を贈り、山伏の奉幣・大峯入の作法を見る
1137 保延 3. 丁巳 相模房法橋相澄、熊野長床執行となる(長床執行のはじめ)
1142 近衛 康治 1.8.18 壬戌 熊野三山検校覚宗、少年のとき(1086〜1107)那智で補陀落渡海僧を見たという
1. この頃、西行法師、熊野で修行し歌を残すという
1143 2.2.5 癸亥 鳥羽法皇・崇徳上皇熊野に御幸
1150 久安 6. 庚午 那智山如意輪堂が西国第一番札所、那智千手堂が第二番札所として記される
1151 仁平 1.2.15 辛未 源義国熊野山御宝前に祈願。美作国稲岡南荘を御師職高坊範助法印を通じて知行させる
1156 後白河 保元 1. 丙子 大泰寺の阿弥陀如来坐像が造立される。胴内に「保元元年法橋尊誉」の銘
1159 二条 平治 1.12.4 己卯 平清盛、熊野参詣の途中に源義朝らの挙兵を聞き切部宿より帰京。別当湛快は武具を贈る
1. 行慶園城寺に熊野権現を勧請する
1. 熊野三山造営のため遠江を造営料国とする。奉行平重盛
1160 永暦 1.10.23 庚辰 後白河法皇、熊野に御幸。本宮にて奉幣・経供養・神楽・今様など行う。のち34回御幸
1. 後白河法皇、京都東山に熊野権現(若王子社)、御所法住寺殿に新熊野社を創祀する
1161 応保 1.1. 辛巳 三井寺覚忠の三十三所巡礼記に「一番、紀伊国那智山云々」と見える
1.12.14 文覚上人、那智山に入り荒修行を行うという
1163 長寛 1. 癸未 甲斐守藤原忠重の熊野社領八代荘侵犯に関して出された『長寛勘文』で熊野神の性格が論議される。この勘文に唐の天台山の王子信が、熊野権現として降臨したという縁起が収録される
1173 高倉 承安 3. 癸巳 後白河法皇、熊野三山検校覚讃を新熊野社の検校、弁宗を別当とする
1176 安元 2.11.26 丙申 平清盛、船で伊勢方面より熊野参詣
1180 安徳 治承 4.4.27 庚子 八条院蔵人源行家(新宮十郎)、伊豆国北条館に赴き、以仁王の令旨(※)を頼朝に伝える
4.8 熊野権別当湛増、謀叛を起こし、弟湛覚の城を焼き所領を略奪
4.12.25 熊野別当ら平氏に背くとの風聞
1181 養和 1.1. 辛丑 熊野山衆徒、伊勢・志摩に乱入し、平氏家人らと争う
1.9.6 熊野権別当湛増ら、関東方に加担して挙兵したとの風聞
1.10.11 熊野衆徒、平氏に加担して上京しようとした熊野南法眼行命の子息・一族郎党を討滅する
1.10.16 平氏、熊野山鎮圧のため加賀守平為盛を紀伊国に遣わし、熊野僧徒を討たせる
1. 後白河法皇、新熊野社仏聖燈油料として全国28か所の荘園を寄せる
1183 寿永 2.7.28 癸卯 源義仲・源行家入京。後白河法皇、平氏追討の院宣を下す
1184 3.3.28 甲辰 平維盛、屋島の戦いから逃れ、熊野の海に入水住生を遂げるという
1185 後鳥羽 文治 1.2.19 己巳 源頼朝、三河国竹谷・蒲形両庄を熊野山の行快僧都に還付
1.3.24 壇ノ浦合戦で平氏一門滅ぶ。湛増ら熊野の水軍、義経の軍に加担
1.11.25 源行家・源義経を追補するための院宣が、源頼朝に下る
1186 2.2.9 丙午 源頼朝、後白河法皇の院宣により、熊野詣の供米を献上
2.5.12 北条時定ら、和泉国小木郷(大阪府貝塚市付近)にて、源行家を捕え誅殺
1187 後鳥羽 文治 3. 丁未 湛増(湛快次男)を熊野別当とし、法印に叙する
3.9.20 湛増、源頼朝に綾30端を進上したが、下心あるのを疑われ返される
1192 建久 1.3 壬子 會我太郎助信、熊野御師尾崎氏に願文を提出する(願文の初出)

『熊野歴史手帳』(みくまの総合資料館研究委員会 1994年)より

用語の説明

用語 説明
贄(にえ) 神・天皇への貢献物(山海の食料品)の一種
神封(しんぽう) 神社に与えられた食封の一つ。一定地域の戸の租の半分ほかが与えられた
采女(うねめ) 天皇に近侍し、食事などにたずさわった後宮女宮の一つ。郡司は貢献
補陀落渡海(ふだらくとかい) 観音の浄土(補陀落山)をめざして聖などが舟出した捨身往生
抖數路(とそうろ) 山中を歩いて修行すること。熊野から吉野に至るのを順峰(じゅんぶ)という
先達(せんだつ) 信者を霊山や社寺に導く指導的な宗教者。専ら熊野系修験者があたった
王子社(おうじしゃ) 熊野神の御子神として道中に配祀された祈願・休息のための社。のち九十九王子ともいわれる。
法橋(ほっきょう) 法印(ほういん)・法眼(ほうげん)の下に位する僧位
御師(おし) 参詣者を案内し、祈祷・宿泊などの世話をした御祈祷師。先達と信者(檀那)は御師に願文(依頼状)を提出して、御師と恒常的な結びつきができ、特定の檀那支配権が御師間で譲渡・売買されるなど、師檀組織の確立・変遷がみられる
令旨(りょうじ) 皇太子・女院・親王らの命を伝える文書