ヤタガラス 研究資料

熊野の歴史

略年表(中世)

西暦 天皇 年号 干支 事項
1193 後鳥羽 建久 4. 癸丑 北牟婁(尾鷲・海山ほか)方面の各地が、伊勢神宮の御厨(※)として記される
1194 5.8.12 甲寅 但馬国多々良岐荘(兵庫県朝来郡朝来町付近)の地頭職(※)に熊野鳥居禅尼を任じる
1198 土御門 9.4.22 戊午 熊野坐神社に、祓の神事に使う湯立釜が鎌倉武将らによって奉納される
9.8.16 後鳥羽上皇初めて熊野に御幸。以降28回参詣
1201 建仁 1.10 辛酉 歌人藤原定家、後鳥羽上皇らと熊野に詣で王子社などで和歌会を催し、懐紙(※)にしたためる
1202 2. 壬戌 熊野に所領を持つ静恵法親王聖護院に入寺、以後聖護院が熊野と関係を持つ
1207 承元 1.6.24 丁卯 鎌倉幕府、和泉・紀伊国を上皇の熊野詣の駅家雑事役に充て、守護職を停止する
1.12.28 院宣により熊野三山検校・臨幸先達を元のごとく園城寺(天台寺門派三井寺)に付与させる
1208 2.10.10 戊辰 北条政子、熊野詣のために鎌倉を出発。夫頼朝と子頼家を弔うためという
1209 承元 3. 己巳 熊野本宮・新宮を造営する。阿波国を造営料国とする
1210 順徳 4.3.22 庚午 鎌倉幕府、北条義時の妻が熊野に参詣するについて、路次の雑事を地頭らに課す
4. 修明門院長厳を先達として熊野御幸。熊野修験弁覚、日光を中興する
1212 建暦 2.2. 壬申 後鳥羽院庁、日高郡園宝郷(御坊市)190石を、熊野新宮領とし、諸役を免除する
建保 1. 癸酉 この年成立の『彦山流記』に熊野十二所権現をまつる今熊野窟が紹介される
1214 2.4.6 甲戌 後鳥羽上皇、御所において大神宮・熊野権現に祈願し、社殿や御正体を描かせ遙拝する
1219 承久 1.10.18 己卯 那智滝本執行長済、尊勝院坊地と諸国檀越を宝善房宝済に譲る(譲状の初出)
1221 後堀河 3.3. 辛巳 後鳥羽院、尾張国牛野荘(愛知県一宮市付近)を那智山瀧本領として寄進
3.6.14 承久の乱に際し、宇治橋の合戦に京方(後鳥羽院側)として、熊野法師ら出陣する
3.6.25 承久の乱の張本人として熊野三山検校長厳僧正らが捕えられる。熊野山快実は処刑という
3.10.1 長厳に代わって鶴岡八幡別当の定豪を熊野三山検校に任ずる
1222 貞応 1.4.27 壬午 幕府、鳥居禅尼所領の紀伊国佐野荘(新宮市)の地頭職を、長子長詮法橋に相伝させる
1233 四条 天福 1.3.7 癸巳 鎌倉御家人の下河辺行秀(智定房)、那智の浜から屋形船で補陀落渡海をする
1236 嘉禎 2.7.24 丙申 幕府、熊野参詣道の久米崎王子社(湯浅町別所)などの復旧を湯浅太郎に命じる
1250 後深草 建長 2.3.11 庚戌 後嵯峨上皇熊野山に進発する。4月5日還御。以降3回御幸
2.11.5 伊予国の藤原朝宗、本宮の御師に祈願文を提出。以降多くの願文が伝来。師檀組織が確立
1266 亀山 文永 3. 丙寅 心地覚心(由良町興国寺、法灯国師)、母妙智尼とともに熊野に参詣という
1274 11. 甲戌 この夏、一遍上人が熊野本宮に参籠し神示を受ける。時宗の開祖となり熊野信仰を広める
1281 後字多 弘安 4.2.16 辛巳 亀山上皇、熊野御幸に出発し、那智山に祈願塔婆を建てる。以降、上皇の御幸は途絶える
4. 宋僧の無学祖元(鎌倉円覚寺開山)、徐福求仙の故事を偲び、熊野大権現に漢詩を捧げる
1282 5.12 壬午 熊野別当31代正湛に跡目なく断絶し、以降、有力五人集(上綱)(※)の支配者となるという
1286 9. 丙戌 沙弥実意、長島(紀伊長島町)・合賀・木本(海山町)御厨の預所職に任ぜられる
1300 後伏見 正安 2. 庚子 くわのあこ女常陸国水助阿闍梨門弟引きの檀那を一貫文で大養房に売る(檀那売券の初出)
1306 徳治 1.3. 丙午 阿須賀の熊野川渡船を成川(紀宝町)に変更し、往来の人道をなおすという
1321 後醍醐 元亨 1. 辛酉 聖護院門跡覚助法親王、熊野三山・新熊野社の検校を兼任。以降、聖護院が重代職となる
1331 後醍醐・光厳 元弘 1. 辛未 大塔宮護良親王、山伏姿で熊野落ち。熊野の竹原八郎・戸野兵衛・野長瀬兄弟ら忠勤する
1332 2.6.29 壬申 竹原八郎、熊野山より大塔宮護良親王の令旨を帯びて伊勢に攻め入る
1333 3.3.23 癸酉 幕府、小山実隆に命じて熊野山内を警固し、護良親王・楠木正成を討たせる
3. 北条氏の遺臣奥村進之丞・水谷・大久保ら、長島赤羽谷にかくれ住む
1335 建武 2.12.18 乙亥 後醍醐天皇、足利尊氏所領の美作国田邑(岡山県津山市付近)を新宮に寄進する
1336 後醍醐・光明 延元 1.2.21 丙子 足利尊氏、新宮社に伊勢国一市郡御山戸(一志郡白山町付近)と伊予国西条荘を与える
1.6. 熊野八荘司(※)、足利勢に加担して比叡山の後醍醐天皇を攻める
1.7. 色川盛氏、那智・新宮・潮岬・山城国山崎などで北朝方と交戦し、その軍功を注進
1.11.30 南朝の宗良親王、木本源太左衛門尉(息長氏)に令旨を下して兵を求める
1. 尊氏若王子乗々院を熊野三山奉行とし、伊勢国窪田荘、尾張国下門真荘の極楽寺等を寄進
1338 3.3.11 戊寅 足利尊氏、熊野山新宮別当へ、紀伊国富安荘(御坊市)などを兵粮料所として預け置く
3.6. 熊野勢、南朝の花園・牧両宮を護衛して、四国に渡り伊予水軍と共に戦う
3.12.5 南朝、愛洲七郎左衛門憲俊に熊野の河内警護を命じる
1340 後村上・光明 興国 1.3.14 庚辰 幕府、紀伊国の泰地・塩崎一族に、瀬戸内の西国運送船を警固させる
1.4. 新宮別当湛誉ほか熊野人が、南朝方の脇屋義助を奉じ淡路の武嶋へ兵船をしたてて送る
1341 2.12.27 辛巳 南朝の後村上天皇、鵜殿荘司の知行地を安堵。翌年にも軍忠を促す綸旨を出す
1343 4.8. 癸未 熊野山の衆徒・神官ら、南朝方鵜殿高義の降伏を入れ、危害を加えないことを盟約する
1345 6.5.25 乙酉 熊野三山検校道昭、那智山尊勝院泰済に、旧のごとく伊豆国江馬荘の供料を管領させる
1346 正平 1.8.18 丙戌 道昭、兵部卿律師をして、買得にまかせ、駿河国北安東荘内の葵名領家年貢を領知させる
1.12. 新宮問丸、鵜殿庄司ら京法勝寺の造営のため、熊野材を大坂淀津へ輸送する
1346 後村上・光明 正平 1. 丙戌 この頃、九鬼隆良は九木浦より波切城に移り七島を領するという
1. この頃、向井浦の向井氏、伊勢大湊にて北畠氏の水軍の将となり活躍
1347 2.6.6 丁亥 九州の南朝軍、熊野水軍を率いて薩摩国東福寺城(鹿児島市)などを攻める
2.8.19 熊野の南朝軍らの和泉・摂津付近攻略に対し、北軍の細川顕氏が天王寺に向かう
1351 後村上・崇光 6.3.14 辛卯 南朝、播磨国栗栖荘(兵庫県損保郡新宮町付近)地頭職を新宮に寄進する
1353 後村上・後光厳 8.2.15 癸巳 南朝、四条隆俊・楠木氏らの兵を率いて紀伊国に入り北朝軍を破る。熊野八荘司も味方
1354 9.4.20 甲午 南北両軍の抗争に際し、本宮・新宮衆徒・五か村らが合力することを盟約する
9. 後光厳天皇、新宮衆徒・神官・長床衆の奏請に応じて造営料として安房、遠江両国を寄進
1366 21. 丙午 宣守大輔権僧正、熊野修験の記録『山伏帳』をあらわす
1376 長慶・後円融 天授 2.2.26 丙辰 牟婁・日高郡内に関所が再興され、熊野参詣人を妨害したので三山衆徒ら排除にのりだす
1382 弘和 2.9.3 壬戌 熊野北山の南朝方が新宮神官を攻める
1383 3. 癸亥 熊野三山検校良瑜、大峯山中深仙で深仙灌頂を開壇する
1384 後亀山・後小松 元中 1. 甲子 伊勢国司北畠氏、加藤甚五郎を長島城に派遣する
1390 7.12.28 庚午 源義満ら、新宮十二社権現・阿須賀社に神宝を調進
1398 応永 5. 戊寅 伊勢大杉谷の山伏宝寿、新宮神倉で捨身の行法を修める
1400 後小松 7.1. 庚辰 熊野七人上綱、上京して位階を受くという
1409 16.12.6 己丑 幕府、熊野山衆徒らの訴えにより、畠山満家に命じ参詣人を妨害する輩を取り締まらせる
1419 称光 26.8.28 己亥 足利将軍義持、安房国国衙職(※)を熊野新宮に寄進し、神宝用途にあてる旨御教書を出す
1424 31. 甲辰 有馬荘の和泉守忠永、近郷を制圧し、阿田和から九木・行野まで16か村を領す
1427 34.9.20 丁未 前将軍足利義満の側室北野殿一行、熊野参詣に進発。三山巡拝し10月10日帰京
1452 享徳 1. 壬申 大先達宗俊、関八州の山伏に諸関破却の衆会を開くことを年行事を通し連絡(年行事初出)
1459 長禄 3. 己卯 足利義政、新宮衆徒神官に紀伊国高家荘の支配を安堵する
1466 後土後門 文正 1.9. 丙戌 畠山義就、熊野北山より河内国に入る(のち京に攻め入り、翌年応仁の乱起こる) 熊野三山検校道興、近畿中国を廻国。道興、那智で3年間の籠山修行を始める
1469 文明 1.11.21 己丑 南朝兄弟の宮、奥吉野と熊野にあって蜂起をはかる
1515 後柏原 永正 12.3.21 乙亥 幕府、紀伊熊野社本宮と新宮衆徒の闘争を制止
1531 後奈良 享禄 4.8. 辛卯 大永年間より諸国勧化奉加し、神倉再興成る。神倉本願妙心寺妙順尼本願号を免許される
1542 天文 11.3.8 壬寅 熊野衆、竜神・山本・柚皮・愛層・一ノ瀬と根来・高野・粉川の3か寺で河内を攻める
1555 弘治 乙卯 曽根・嘉田・古江・梶賀の4郷、近江の六角佐々木氏を招き、盗賊取締りを懇請する
1556 2. 丙辰 今川義元、駿河国(静岡県)北安東の地を那智山に寄進
1561 正親町 永禄 4.7.22 辛酉 毛利元就の代参として小早川隆景が、新宮社へ参詣し祈梼する
1565 8. 乙丑 鳴川(紀宝町成川)に渡し場をつけかえし、巡礼番所も移転するという
1569 12.12.23 己巳 徳川家康、紀伊熊野社に遠江国山野荘土橋郷の地を寄進
1571 元亀 2. 辛未 那智山、織田信長の焼き討ちに遭う
1572 3.7 壬申 堀内安房守、鵜殿孫重郎と大居城(本宮町)を攻略し、十津川・北山・有馬に勢力を拡大
1573 天正 1. 癸酉 伊予字和郡の豪族土居清良が高野山から小辺路を通り熊野三山に巡拝。小辺路越えの初出
1575 3. 乙亥 堀内安房守、水陸から三木城(尾鷲市)・長嶋城(紀伊長島町)を攻略し南志摩へ勢力拡大
1580 8.3. 庚辰 向井将監忠勝、甲斐の鵜殿兵部の軍船を伊豆の三島浜に奪う
1581 9.3. 辛巳 山本善内弘忠、出家して善空と号し、古座善内寺(善照寺)を開基
9.4.29 堀内安房守、那智廊坊城(那智勝浦町)を攻め落とす。この時、那智山も炎上
1582 10. 壬午 堀内安房守、尾鷲を攻め、地侍荘司・北村・世古氏らを中村山で敗る
1583 11.6.26 癸未 堀内安房守の南征に対し、高川原氏や湯川氏らが田原(古座町佐部)で防戦
11.11. 鵜殿孫重郎、徳川家康より甲斐国熊野領の支配を安堵される

『熊野歴史手帳』(みくまの総合資料館研究委員会 1994年)より

用語の説明

用語 説明
御厨(みくりや) 古代・中世の神領。魚介などの供物の献納が中心
地頭職(じとうしき) 中世、地頭としての荘園・公領の管理・徴収権などの職務と、それに付随した権利
懐紙(かいし) ふところ紙。特に熊野詣の途次、和歌を詠じて書されたものを熊野懐紙といい、30数点が現存
上綱(じょうこう) 僧正・僧都などの僧綱の上座。新宮では別当にかわって有力な社家が合議で運営した
熊野八荘司(くまのはっしょうじ) 熊野地方で土豪化した8家の有力武士団
国衙職(こくがしき) 諸国の政庁の支配下にある土地の権益