ヤタガラス 研究資料

熊野の歴史

略年表(近世)

西暦 天皇 年号 干支 事項
1585 正親町 天正 13. 乙酉 羽柴秀吉、紀伊国に南征、奥熊野を平定する。堀内安房守はこれに帰順
1586 14. 丙戌 この年から19年にかけて伊勢山田の御師ら、尾鷲八鬼山道の町石を建立する
14. 豊臣秀吉、熊野山中において、京都方広寺大仏殿建立の用材搬出を藤堂高虎らに命じる
1587 後陽成 15.10.2 丁亥 豊臣秀長、玉置山社僧篠房に北山が検地に応じないので討ち取るよう通達
15. 豊臣秀吉の南征で破壊された那智山如意輪堂を、秀吉の命により秀長を奉行として再建
1588 16. 戊子 北山地方の平定拠点として、藤堂佐渡守(のちの高虎)が赤木城(紀和町)を築く
16. 豊臣秀長の材木奉行、雑賀城用材として熊野で集めた材木2万本を処分し誅殺される
1590 18.2 庚寅 豊臣秀吉、那智山妙意輪堂へ大鰐口を奉納
18.4. 新宮社遷宮。秀吉が黄金115枚を三山へ寄進。本宮・那智も造営と修営
18. 新宮で藤堂佐渡守の奉行により、朝鮮出兵の船100艘を造る
18.10.20 豊臣秀長、小堀新介に命じ、新宮領北山方面の検地を行う
1592 文禄 1.3.7 壬辰 堀内安房守、秀吉の朝鮮出兵に際し、熊野水軍574人を率いて出陣し戦功を挙げる
1. 西向小山隆重、朝鮮出兵に際し、藤堂佐渡守の下知状にて人数180人割り付けられる
1594 3. 甲午 伏見城用材として、新宮領北山材が使われる
1596 慶長 1. 丙申 尾鷲の世古・仲・林ら、奥州郡山の士福田某父子3人を大内山まで追って討つ
1598 3.7.5 戊戌 豊臣秀吉、病気平癒の祈祷のため、本宮に米500石を寄進
3.9 日高郡山地郷の郷民一揆平定に、堀内氏ら熊野衆が加わる
1600 5. 庚子 関ヶ原の戦を前に堀内氏善、石田三成の勧めで牟婁一郡8万石と引き換えに西軍に加担
5.9. 堀内氏ら鳥羽で西軍の敗戦を聞き、氏善、大野山城(紀宝町)に退却後、九州に落ちのびる
5.10. 浅野右近太夫忠吉が新宮城主となり、2万8000石余りを領する
1601 6.1. 辛丑 豊臣秀頼、熊野三山修営に着手。奉行浅野左京太夫幸長
1601 後陽成 慶長 6.11. 浅野幸長、各郡の百姓中あてに5か条の定書を発し、紀州の検地を行う
6.11. 浅野忠吉の知行高は牟婁70か村で2万6500石余り、直川・糸我・中番で2165石余り
6.12.6 浅野幸長、熊野三山の社領を定め、新宮350石、本宮300石、那智300石とする
6. 浅野忠吉、新宮城築造のため、香林寺(宗応寺)を神倉山麓近くに移転させる
6. 浅野忠吉、築城のため東仙寺の移転に先立ち、廃地代替地として高岡で100石寄進する
1603 8. 癸卯 九鬼恒隆、九鬼城を壊す。またこの年、浜宮・天満・宇久井浦々に大潮さしいる
1604 9.7.11 甲辰 幕府、江戸城普請の石材輸送のため石船を紀州藩に命じ、熊野地方で385艘を造る
9.9. 聖護院宮が熊野に巡拝。以降、聖護院門跡の来熊が近世を通じて10度におよぶ
9.12.16 慶長の大地震、大津波が発生し熊野地方も大被害をこうむる。長島では数百人、溺死
9. 江戸城本丸普請のため北山材を江戸表に廻送。北山から新宮への筏役は十津川郷が担当
1605 10.2.16 乙巳 浅野幸長、室郡に出材奉行4名を任命する。これに要する人足等を百姓に命じる
10.5.7 浅野右近、新宮近辺3里4里のけやき材の売買を停止する
10.6.3 宮城松島丹福寺方丈再建の用材を熊野より運送する。匠人は紀州の住人刑部左衛門国次
1606 11.3 丙午 浅野出雲守、早世し宗応寺に埋葬する。法名関芝宗応居士。以後香林寺を宗応寺と改む
11. 江戸城増築、京都本国寺山門改築、松島瑞巌寺建築に熊野材が使われる
11. 薩摩・紀伊国等に外国船来航する
11. 太地浦の和田忠兵衛頼元、泉州堺の浪人らと協力して鯨突を始める
1607 12. 丁未 牟婁郡に検地。毛付、荒、走百姓調査のため奉行5名を置く
1608 13. 戊申 本年貢の制度すみずみまでゆきわたり、池原に奉行所できる
1609 14.8.15 己酉 堀内安房守氏善、肥後国宇士(熊本県宇士市)にて死す
14. 向井将監忠勝、九鬼守隆と共に淡路国に赴き500石以上の兵船を集め幕府に差出す
14. 京都方広寺大仏殿に熊野材を使用する
1610 15.4.4 庚戌 和歌山と熊野路次筋の間を往復する伝馬・人足・継飛脚は、領主の印判が必要となる
15.6. 和歌山より熊野伊勢境までの上り下り船の印判を、田辺城・新宮城と植木小右衛門に遣わす
1611 後水尾 16.9.26 辛亥 徳川家康、江戸にて安藤帯刀直次と水野対馬守重仲を召して、頼宣付属の諸士とする
16. 幸長、周参見から錦(三重県紀勢町)までの52ヶ村の加子米は、忠吉に納めさせる
1612 17. 壬子 太地浦には鯨船39隻のほかに浜取船があった
17.1. 豊臣秀頼、幸長を奉行とし、熊野本宮坐神社に吊灯籠を奉納する
1613 18. 癸丑 熊野地方は4月より6月まで大早魃、6月17日はじめて雨が降る
18. 伊達政宗のローマ派遣に、向井忠勝の家来乗船する
1614 19.12.12 甲寅 浅野氏大坂出陣の留守中、北山川流域32カ村の3000余人が一揆を起こすが失敗
19. 向井忠勝は大坂冬の陣に海門を守り、敵船数10隻を捕える
1615 元和 1.4.18 乙卯 夏の陣に浅野忠吉は2番備の軍に、長田正政所は1番備の軍として熊沢兵庫助に加わる
1. この頃廻船にて材木・薪炭等を江戸へ、鯨・鰹・鰯等諸方へ廻送が盛んとなる
1.6.10 紀州藩主浅野長晟、前年発生の北山一揆参加者363人を処刑
1616 2. 丙辰 前年一国一城令が出されたが、新宮は一揆発生の恐れがあるため、城の再建を特に許される
1617 3. 丁巳 江戸城天守閣用材として熊野材を伐り、九鬼長門守船積みのため、戸田六左衛門と相談する
1618 4. 戊午 浅野右近、新宮城築城のため地ならしを行う。この時、丹鶴寺(東仙寺)を蓑嶋跡へ移す
1619 5. 己未 徳川頼宣、和歌山入部により、浅野右近国替え、水野出雲守国入り。石高3万5000石
1620 6.8 庚申 南龍公(頼宣)古座浦に舟遊。黒島を九龍島と書き改め弁財天を祀る
1621 7. 辛酉 水野家の元祖、水野出雲守重仲死去。全龍寺殿と号す
1623 9. 癸亥 徳川頼宣勢州より八鬼山(尾鷲市)を越え熊野三山に参詣。以後、藩主の三山社参続く
9.8 奥熊野代官所を木本浦に置く。また、奥熊野にて杉桧の人工造林の端を開く
9. 太地出身である太地嘉右衛門、三ツノ村にて50余町歩の耕田を拓く
1624 寛永 1.8 甲子 太地の庄屋和田金右衛門、新宮熊野地の阿須賀神社から勧請して飛鳥神社を建立
1628 5. 戊辰 梅本坊庵主行尊が三山修復請願のため江戸へ下る。三山請願の始めとなる
1630 7. 庚午 熊野に疱瘡大流行し、続いて大飢饉となる
1633 明正 10. 癸酉 丹鶴山の城完成する
1634 11. 甲戌 この頃紀州蜜柑が盛んとなる
1635 寛永 12. 乙亥 向井忠勝、伊豆にて熊野水軍の遺法に則り、幕府の旗鑑安宅丸を建造し、将軍家光試乗する
12. 呼崎・尾鷲・九木崎に遠見番所を設ける
1636 13 丙子 太地東明崎に常灯明台が設置される。これは、我が国で初めての灯台である
13. 紀州藩、奥熊野の山林の保護のため六木のうち、楠・柏・槻は伐採禁止
1637 14. 丁丑 紀州藩、沿岸各地に遠見番所を設置。潮御崎から長嶋まで水野淡路守が異国船警備担当
1640 17. 庚辰 鳥居崎村(尾鷲市)の新田開発をはじめる。4年後に11町歩を拓く
17. 新宮の材木置場を熊野地池田に設ける
1641 18. 辛巳 成川屋佐兵衛発願で飛鳥神社にて廻船中の日待修行始まる。廻船中53艘、他に24艘
1642 19. 壬午 全国的な大飢饉となり、熊野でも草木の葉を食べる
1644 後光明 正保 1. 甲申 郡奉行の命により、熊野の各組に大庄屋が置かれ、組内の行政を司どり、帳書が補佐する
1645 2. 乙酉 紀州藩、新規召し抱えの浪人を放ち、地士の経済的優遇をやめる
1647 4.11. 丁亥 新宮廻船中が材木運搬等について仲間定を取り決める
1648 慶安 1. 戊子 紀州藩は徒党を禁じ、不審者等を取り締まる。六木のうち杉・桧・松の伐採が認められる
1650 3. 庚寅 江戸との材木取引が盛んになるにともない、輸送される材木の品質規制が行われる
1652 承応 1. 壬辰 熊野川大洪水。河口へ大船48艘流失。200余人水死
1653 2. 癸巳 新宮神倉山麓(妙心寺)の庚申堂建立。この地方の庚申堂の始めという
1655 後西 明暦 1.8.28 乙未 紀州台風2000軒余倒壊。材木7万本余流失。9月11日新宮町中大火
1656 2. 丙申 これまで寺々で埋葬されていた墓地を、新宮の南谷・対岸の成川へ移す
1657 3. 丁酉 時宗(一遍上人開祖)の遊行上人、熊野へ来る。以降、近世を通じたびたび来熊する
1660 万治 3. 庚子 紀州藩により古座浦に鯨方が設けられる
1661 寛文 1. 辛丑 銅山(紀和町楊枝川)の採掘始まる
1. 紀州藩、海岸警備について指令する
1664 霊元 4. 甲辰 串本の田島式平地引網発明。この年大島浦へ唐船入港。6月、新宮城松の丸崩れる
1665 5. 乙巳 熊野地方で疱瘡はやる
1666 6. 丙午 那智の本願衆と新宮庵主が成川渡しと籠の件で対立し、那智の社僧・新宮の社人が仲裁する
1668 8.6.13 戊申 新宮神民町(速玉大社付近)より出火、新宮大半焼亡。この年、新道(大橋通西側)できる
1669 9.10.22. 己酉 新宮川原町で扱う商売物は、炭・なる・すくり等18種類に限定する
1670 10. 庚戌 領内に倹約を命じ、代官より大庄屋に通達
12.6. 壬子 奥州南部藩の大銀与兵衛、7度の熊野詣を記念して神倉山下に下馬標石を建立
12.12.1 新宮池田に北山御用木御蔵できる
1674 延宝 2. 甲寅 熊野は大飢饉となり、竹の根を掘って食す
1675 3. 乙卯 太地・浦神・勝浦・三輪崎・古座・宇久井・串本浦の庄屋が、捕鯨の取り決めを行う
3. 太地覚右衛門頼治、網取りによる捕鯨法を考案し好成績を挙げる
3. 一方、熊野一帯にさんまの網漁が考案され各地に普及する
3. 熊野本願9か寺に対し、住職掟書が江戸寺社奉行より出る
1677 5. 丁巳 太地捕方より初めて紀州藩を通じて朝廷へ、新宮領主からは将軍へ鯨肉を献上
5. 江戸公儀への三山の修復願いは、社家と本願(庵主)と半年替りに定める
5. 熊野川口に入船について、新宮・鵜殿回船中が5か条の定を作る
1678 6. 戊午 新宮の備長炭の炭役所を深谷(紀宝町成川)に創設する
1681 天和 1.6.25 辛酉 熊野川の出水時の「筏やらい賃金」が決まる。この年、炭役所が深谷から池田へ移る
1682 2.8. 壬戌 速玉大社のきゅ漆金銅装神幸用船が、新宮近在の有志16人によって江戸で造られる
1683 3.9.16 癸亥 新宮廻船中が御舟祭の早舟を寄進する。これまでは相野(紀宝町)より舟を出す
1685 貞享 2.2.17 乙丑 那智観音大坂道頓堀に出開帳。以後たびたび行う
1686 3. 丙寅 速玉大社の新輿修復成る。江戸鉄砲州権現講中と廻船中(当町奉加金)がまかなう
1687 東山 4.8.8 丁卯 異国船1艘が串本大嶋樫野浦に着岸
1691 元録 4. 辛未 熊野街道筋の茶屋に、旅人や巡礼の取り扱い方を触れる
1692 5.7 壬申 高野学侶と行人が争い、新宮与力ら高野山に詰め、違背の行人方637人遠流
5. 新宮町会所できる
1694 7. 甲戌 成川渡場に棹銭の高札初めて建つ
1700 元録 13.1. 庚辰 新宮下馬にて熊野牛玉神符(※)を巡礼に売り始める。この年、奥熊野御仕入方役所を創設する
1702 15. 壬午 この頃から、江戸・大坂などで熊野炭の声価大いにあがるという
1704 宝永 1. 甲申 土井八郎兵衛(宗寿)、小原野を拓き、また植林に努む。宝永10年までに及ぶ
1705 2. 乙酉 賀田村(尾鷲市)へ御仕入方役所をおく
1707 4.10.4 丁亥 大地震、諸国に大被害。熊野でも津波の被害、余震7日に及ぶ
1708 5.7 戊子 奥州南部藩の吉田金右衛門、8回にわたる熊野詣を記念して、速玉大社に碑を建てる
1712 中御門 正徳 2. 壬辰 新宮本町の高札場を馬町へ移す
1716 享保 1. 丙申 紀州藩、海防のため浦組制度を整備。奥熊野の各浦も防備を整え見張番所をおく
1720 5. 庚子 紀州藩、二郷村(紀伊長島)に薬草園を新設
1721 6. 辛丑 幕府より三山修復を認可される。将軍吉宗、三山社殿修復基金として金2000両を寄進
6. 那智本願と社家、新宮庵主と三方社中との出入りおこる。延享元年解決する
6.9 将軍吉宗、紀伊国の神社に御太刀を奉納。熊野三山へも金1枚ずつ添えて奉納する
6. 江戸より薬草役人、野呂元丈ら大台ケ原山を経て尾鷲に来る。この頃薬草役人よく来熊
1722 7.5 壬寅 若山より三山へ120両の勧化支度金を下賜される。鳥居兵部の子弥四郎ら諸国へ出立する
1724 9.1 甲辰 熊野三山造営のために再勧化、都合3万両ほどになる
1732 17.11 壬子 新宮御修復成就。御正体仏を社家掛けず。十二社16の灯明を3つにし、宮別に神名を掲げる
1736 桜町 元文 1.9 丙辰 熊野山産出の銅で鋳銅許可される
1. 将軍家より金2000両を三山に寄進。のちの貸付業の基金となる
1. 第5代新宮城主水野忠昭、楠藪(新宮駅前)へ秦の徐福の石塔を建てる
1742 寛保 2. 壬戌 奥熊野全体で1160両の調達金を命ぜられ、尾鷲組より250両の調達金を上納する
1751 桃園 宝暦 1. 辛未 土井本家、薩摩の江南竹数種と銀竹を入れ、倉の谷他各地に竹林の造成開始
1752 2. 壬申 熊野川口(飛鳥川)塞がり船荷を三輪崎へ陸揚げする
1753 3. 癸酉 奥熊野御目付(※)の尾鷲浦役所在勤、古座組湊村在の口熊野御目付の兼務となり、廃局する
1754 4. 甲戌 尾鷲・梶賀・九木・長島・白浦・二木島に鯨方役所を置く。明和6年に閉鎖する
1755 5. 乙亥 紀州徳川家の墓地(下津町長保寺)用材に曽根・梶賀(尾鷲市)の石材送る
5. 熊野街道にある丁石を粗末にせぬよう申し渡す
1757 7. 丁丑 奥熊野山中に生育する山人蔘の掘り取りを禁止する
1759 9.2.20 己卯 上熊野地飛鳥社前火事、全焼50戸、炭納屋13軒、炭俵10万俵、米10石、仕入役所等焼失
1767 後桜町 明和 4. 丁亥 熊野銅鉛の新山発見のため、若山の熊野屋彦太夫の手代来る
1783 光格 天明 3. 癸卯 大奥の御女中伊勢・熊野参詣。一行170人、乗物14挺
1784 4.3 甲辰 新宮で米仲間、打ちこわされる。熊野地で飢饉。米価が石140匁になる
1791 寛政 3.3 辛亥 米国人ケンドリックの商船2隻、薪・水を求めて古座組大島浦(串本町)に来着
1793 寛政 5. 癸丑 紀州藩、全領に大指出帳を提出させる
1797 9.2.1 丁巳 新宮の本広寺境内に江戸表千家川上不白の書写妙法蓮華経印塔(一字一石経塚)が建つ
1801 享和 1. 辛酉 西国巡礼3万人通る。以後、文政10年頃まで毎年1〜3万人が新宮を通過したという
1802 2. 壬戌 尾鷲で悪天が続き船入港せず、米が払底、南浦・中井浦の米屋へ暴徒暴れ込む
1806 文化 3. 丙寅 新宮に士族の子弟教育のための漢学所が創設される
1814 11. 甲戌 熊野川口に徳本上人の六字名号石建つ。水難救済のためという
1819 仁孝 文政 2. 己卯 新宮木材卸株が認められ、22名に営業許可される
1821 4. 辛巳 この年、那智山の富くじ興業が許可される
1823 6. 癸未 御修復願の件で三山の間に争論おこる。三山惣代玉置縫殿本宮上席の書を奉る
1825 8.5 乙酉 新宮庵主から寺社奉行に借金を請う。100両10年賦、成川渡銭の権利を担保とする
1826 9.6 丙戌 三山惣代の玉置縫殿、寺社奉行から富くじ願が許可される。大坂で年4回興業
1828 11. 戊子 古手屋株その他諸株に冥加金かかる
1830 仁孝 天保 1. 庚寅 須賀利浦(尾鷲市)より太地鯨方へ、永代に加子10人出す慣例廃止を掛合う
1831 仁孝 2.6 辛卯 紀州藩より地士帯刀人に大筒指南のための役人来り、二木島(熊野市)大筒場を検分する
1835 仁孝 6.8.16 乙未 第8代新宮城主水野忠啓隠居。忠央家督を相続
1847 孝明 弘化 4. 丁未 湯川しか洞、藩士育英のため塾を始める
4. 八鬼山に山賊が出て旅人を苦しめるので、木本代官所より捕手数+名が出て捕う
1848 嘉永 1.2.5 戊申 水野忠央「丹鶴叢書(※)」11冊を将軍家に献上。嘉永6年、全171巻完成する
1.9 太地・三輪崎鯨方、新宮城主の支配になる
1852 5.7.20 壬子 尾鷲浦が長雨で米価高騰、浦人の生活困窮し若衆80数人が米屋3軒を破り米を奪取する
1853 6.1.5 癸丑 本宮玉置縫殿、水野忠央により失脚させられる。町会所に着き、上り牢に入る
6.11.23 孝明天皇より外国艦渡来につき、国体安穏などで熊野三山に祈願するよう綸旨が出る
6.12.10 水野忠央、海防のため与力を増員。その後与力空地、上げ知すべて新宮領になる
1854 安政 1.6.13 甲寅 諸国大荒れ、大地震、18日まで余震。11月4・5日も震動。熊野地方でも大きな被害あり
1855 2.3.5 乙卯 水野忠央、有田・日高郡内の新宮領知行地と、木本・本宮組らの本藩領の村替えを計画
2. 与力衆御改革につき御蔵米(※)になる
1856 3.6.14 丙辰 新宮与力の本藩直臣の身分を解き、他の藩士と同一処遇にする
3. 水野忠央、、紀州徳川家より慶福を将軍に擁立しようと画策する
1857 4. 丁巳 新宮池田で軍船一の丹鶴丸を造らせる。新宮千束に製薬工場、鴻田に水車場完成
1858 5.9 戊午 池田で造船の一の丹鶴丸出港、勝浦入港、海中で傾く
1859 6.2 己未 尾鷲組中井浦の仁衛門、大台ケ原山開発の願書を提出する
6. 三輪崎鯨方、太地覚右衛門の支配となる
1860 7. 庚申 古座一揆起こる。川口村まで2000人余がよせる
万廷 1.6.4 水野忠央幕府政変等により新宮にて謹慎を命ぜられ、14日江戸発、同月晦日新宮着城
1861 文久 1.9.21 辛酉 イギリス船大島橋杭(串本町)に入津する
1862 2.6.25 壬戌 水野忠央、熊野地(新宮市池田1・2丁目)に御殿(別邸)を建て波瀲(はれん)館とよぶ
1863 3.7.11 癸亥 外国軍艦沿岸に出没、熊野三山ほかの防備を厳重にする
3.8.25 9月にかけて天誅組の者、十津川郷より新宮領へ乱入の風聞あり。防備体制をとる
1864 元治 1.7.22 甲子 京都蛤御門の変おこり、新宮より与力・山家が大坂表に出張する
1865 慶応 1.5. 乙丑 長州戦争のため水野大炊頭軍大坂まで出陣。新宮城主が馬町に修道館を開き文武を教える
2.4.2 丙寅 諸色高値のため賃金高騰し、領内在町とも運送のため馬荷のほか、地車使用の通達出る
2.5 長州戦争のため、鯨舟10隻・水夫各16人あて、熊野浦から芸州へ出船
2.6.18 長州戦争、芸州大野(広島県安芸郡付近)の合戦で水野忠幹軍が善戦する
2.7 太地覚右ヱ門、藩より鯨方の経営を譲り受け、三輪崎・古座・二色の鯨方3組を買収する
1867 明治 3.12.28 丁卯 熊野三山検校の雄仁法親王より、神仏習合の旧式を改め、還俗すべき勅命が出る
3.12.28 熊野三山貸付金の取立が許されるが、約65万両回収不能となる
1868 明治 1. 戊辰 神仏分離令により、熊野三山は仏式を改め神道唯一となる

『熊野歴史手帳』(みくまの総合資料館研究委員会 1994年)より

用語の説明

用語 説明
熊野牛玉神符(くまのごおうしんぷ) 熊野三山大社から出した厄除の護符
奥熊野御目付 旗本・御家人の非違をきびしく監察し、主君に報告した監察官
丹鶴叢書 第9代城主水野忠央が編刻したもので、「大日本史」「群書類従」とならんで江戸時代の三大国書の一つに数えられた
御蔵米 諸藩の藩蔵に貢米として納入された米穀をさす。百姓・町人らの取引するいわゆる納屋米より商人価値が高かった