ヤタガラス 研究資料

熊野の歴史

人物小伝

浅井清成 あさい きよなり 1659〜1747 近世中期の家臣
忠八 与五兵衛善成3男。処罰された駒之助善成の弟。紀州の生まれ。寛文10年(1670)9月25日分家として新規に召し出され大番。切米20石。11年4月横須賀大番。元禄6年(1693)10月古座目付。9年2月名草郡奉行。12年7月奥熊野郡奉行所へ転役。14年6月白子郡奉行。切米50石。15年閏8月勘定頭。切米80石。宝永3年(1706)9月知行200石。8年正月300石。正徳4年(1714)11月町奉行。5年9月奉行。享保7年(1722)10月熊野へ御供。8年11月勝手方についても勤めるよう仰せつけられる。9年閏4月熊野三山修復筋吟味を命じられる。16年9月奉行役御免。18年隠居。延享4年4月25日没。(浅井家「系譜」、『和歌山県史』近世)
浅野幸長 あさの よしなが 1576〜1613 紀州浅野家初代藩主
左京太夫・紀伊守・清光院 長政の長男。父長政は、秀吉によって近江・若狭の大名となり、また、秀吉の全国征服に従軍すると共に太閤検地も行った。幸長は、長政に従って小田原の陣に加わり、また、文禄の役と慶長の役では朝鮮にも出陣。文禄2年には幸長に16万石、長政に5万5千石に分けて甲斐が与えられ、幸長も大名となった。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦では家康方に付き、戦ののち、紀州37万4千石へ転封となる。紀州に入国すると、田辺に家臣の浅野左衛門佐、新宮に同じく浅野忠吉を置いて一帯を支配させた。また、士豪の子孫で浪人となっていた、日高郡小松原(現御坊市)の湯川勝春や名草郡鷲森(現和歌山市)の佐武義昌などを召し抱える。6年には紀州全体で検地をやり直し、農村支配を徹底。和歌山城は、6年までには普請を始め、11年までには天守閣が完成。大手の北への移動と城下町建設は、15年から19年までの間に行った。田辺では11年に湊村城が作られ、新宮でも6年に築城されている。手伝普請は、幕府から頻繁に命じられ、11年の江戸城普請では7075人が江戸へ向う。他に、駿府城・名古屋城普請なども行った。キリシタンへの理解は深く和歌山には教会も建て、ソテーロ神父などが布教活動を行った。慶長18年8月没。(「清光公済美録」、『浅野家文書』、『和歌山県史』近世)
安珍 あんちん - 伝承の人物 僧侶
「道成寺縁起」によると、延長6年(928)8月奥州から熊野参詣の途中、牟婁郡真砂(現中辺路町)の清次庄司の宿屋に泊まったところ、その宿の妻女が夜中寝床に忍び込んで契りを結ぼうと迫ったので、あと少しで熊野に参れるのにそのようなことはできない。2、3日すれば下向するのでその時に約束を果たすといってその場を逃れた。しかし、待てども現れず裏切られたことを知った妻女に追いかけられ道成寺(現川辺町)に逃れ、鐘の中に隠れるが、日高川を渡るときに蛇身に変じた妻女に鐘ごと焼き殺されてしまったという。この僧が安珍、蛇身に変じた妻女が清姫と呼ばれるようになる。この説話は長久年間(1040〜1044)に編さんされた「大日本法華経験記」をはじめとして「今昔物語集」などに見える。(「道成寺縁起」)
一遍 いっぺん 1239〜1289 鎌倉時代の僧侶 時宗の開祖
伊予国の豪族河野通広の子。幼名松寿丸。初名は隋縁・智真。宝治2年(1248)出家し、浄土宗西山派の僧である筑前国の聖達、肥前国の華台に師事。弘長3年(1263)父の死に遭い帰郷、還俗するが、文永4年(1267)再び出家。11年夏、高野山を経て熊野に参詣。そこで、一切衆生の往生は南無阿弥陀仏の名号によって定まったことであるから、信・不信を区別せず、浄・不浄を差別せず、「南無阿弥陀仏」と記した札を配るように、との熊野権現の夢想を得る。夢想の趣を頌に作り、名を一遍と改め、京都・九州・陸奥など各地を遊行、弘安2年(1279)信州佐久郡小田切で踊念仏を始めた。正応2年8月23日兵庫和田崎の観音堂で没す。(「一遍上人絵伝」「一遍上人語録」、大橋俊雄『一遍』)
宇多上皇 うだじょうこう 867〜931 光孝天皇の子
光孝天皇の子。政治の刷新を図り、その政治は後世「寛平の冶」といわれた。のちに出家し法皇となる。昌泰3年(900)10月高野山へ参詣。延喜7年(907)10月正二位熊野速玉神に従一位、従二位熊野坐神に正二位を授け、法皇として初めて熊野山に参詣した。(「日本紀略」「扶桑略記」)
円蔵 えんぞう 生没年未詳 近世後期の鍛冶
伏拝村(現本宮町)に住む。上方で鍛冶の見習いを終え狗子ノ川j村(現那智勝浦町)で「紀州株」(和歌山株)を所持する嘉兵衛の養子となる。寛政4年(1792)宇久井浦(現那智勝浦町)で新たに鍛冶職をはじめたため新宮鍛冶仲間から紀州株による新宮付近での営業を拒否される。上納銀を納めていると主張したものの争論は収まらず嘉永元年(1848)子の政右衛門が新宮仲間へ加入することでようやく決着する。(安藤精一「紀州藩新宮の鍛冶仲間」)
円通 えんつう 1643〜1726 黄檗宗光明寺(現和歌山市)開祖
道成 熊野の生まれ。はじめ北山碧岩寺、ついで和佐慈光精舎に学びのち黄檗山独湛の弟子になる。寺内に5年、諸国遍歴10年、一切蔵経を閲すること10年の誓いを禅林寺で果たす。のち光明寺を草創。享保11年没。著書に「円通語録」「角虎録」など多数。(『南紀徳川史』7)
小栗判官 おぐり はんがん - 伝承の人物
説教「小栗」によると、相模・武蔵の大豪族横山氏の一人娘照手と結ばれるが、これに怒った横山氏によって毒殺される。照手は人買に売られて諸国を転々とし、ついには青墓の宿(現大垣市)の万屋の長の下女となり、激しい労働の日々を送る。死んだ小栗は蘇生して藤沢の上人の計いで土車に乗せられ、大勢の人々の手から手へと次々に引かれて熊野に運ばれる。この途中、照手も小栗とは知らずにこの土車を引く。小栗は熊野本宮の湯の峰の湯を浴びて復活し、照手と再会して2人を苦しめた者たちへの復しゅうを遂げ、常陸国へ戻って二代にわたる長者として栄えた。(「小栗」)
覚右衛門 かくえもん 生没年未詳 近世前期の太地村庄屋
延宝3年(1675)12月下里・浦神・宇久井・勝浦(いずれも現那智勝浦町)・森浦(現太地町)・三輪崎(現新宮市)の庄屋と共に捕鯨の定書に連署。銛が同時にあたったときの取扱など11ヵ条よりなっていた。(「近世史料」5)
嘉兵衛 かへえ 生没年未詳 幕末の長嶋浦(現紀伊長島町)庄屋
同浦は宝暦年間(1751〜1764)太地浦の鯨方より借銀。以来毎年太地浦に鯨取りの加子を48人差出していたが年々調達が困難となる。元治元年(1864)嘉兵衛たち村役人が加子の減員と賃銀増加を願い出たため30人に減員、翌2年5月には両浦の間で賃銀の支払などについての書付も取り交わされた。しかし、この年は30人集められず嘉兵衛は庄屋役取上げを申し渡されている。(「近世史料」5)
川上不白 かわかみ ふはく 1719〜1807 近世中期の茶道江戸千家の流祖
亀次郎堯達・新柳・宗雪・孤峰不白・不羨斎・円頓斎・妙々斎 新宮水野家臣川上五郎作の次男として新宮町に生れる。五郎作は兄で父は六太夫ともいわれる。享保18年(1733)新宮から江戸に出、翌年京都に赴いて表千家7世家元天然如心斎宗左に入門する。水野家の後ろ楯があったといわれている。元文5年(1740)4月1日師如心斎から宗雪の道号を与えられる。延享元年(1744)和歌山に出向いた如心斎に随行。このとき不白の流れをくむ茶道の基本精神である「常」の一事を悟ったという。寛延2年(1749)2月21日真台子を伝授され、翌年には一子相伝の「長盆之伝」も伝授される。この時期鴻池家から経済的な援助ばかりか伝授についても後ろ楯を得ている。京都では如心斎の七事式制定にも参画。3年10月7日心如斎の命を受け、千家の茶を広めるため江戸に帰る。水野家の茶道に就任したのもこのころでのことらしい。江戸では黙雷庵や蓮華庵などの茶室を設けて精力的に活動。幕府では田沼意次や太田資愛、大名では島津氏や毛利氏なども不白に入門。安永2年(1773)嗣子宗引に宗雪の号を譲り、江戸水野家下屋敷内の隠宅に移る。寛政9年(1797)には新宮での菩提寺本広寺に一字一石の法華経供養塔「書写妙法蓮華印塔」を建立している。文化4年10月4日没。著書に「如心斎口授不白書留」・「不白筆記」・「蓮華庵茶道秘要録」・「茶の湯式便覧」などがある。俳人としても著名で「不白翁句集」はことによく知られている。(西山松之助「如心斎と不白」、川上閑雪「不白の道統」)
崖熊野 きし ゆうや 1734〜1813 近世後期の折衷学派藩儒学者
剛先・順輔・権兵衛・諱弘敦 海部郡雑賀(現和歌山市)、のち新宮に住む。寛政2年(1790)12月儒学の力があるということで召出されて7人扶持、講釈場勤務。翌年4月には城内中之間での講釈も命じられる。4年6月10人扶持。10年11月切米20石、奥詰。文化3年(1806)8月には「紀伊続風土記」の新撰御用をつとめた。10年4月隠居。藩校勤めは勝手次第。学問のかたわら書画をもよくし、写実的な人物・花鳥画に比喩と諧謔をこめた詩文をそえた作品を遺している。文化10年8月13日没。(『南紀徳川史』6、和歌山県立博物館『きのくにの画人たち』)
北野殿 きたのどの 生没年未詳 室町時代の女性 足利義満の側室
出身については不明。熊野信仰に篤くたびたび参詣を行なう。そのうち応永34年(1427)義満の娘南御所と今御所とともに応永3年以来14回目の熊野参詣の様子が先達をつとめた法印大僧都実意が記した「熊野詣日記」として残されている。同記によれば、実意は北野殿以外の3人の貴族女性の先達をつとめており、当時貴族女性の熊野参詣が盛んであったことが知れる。また、この記録は室町時代の熊野参詣を記した唯一のものといってよく平安・鎌倉からの熊野信仰、参詣の変化を考える上で貴重。例えば承元4年(1210)修明門院の参詣の際、同行の相模守任業以下9人が流死した石田川(現富田川)一の瀬の渡りを避け、ルートを変更していることなどがわかる。また、湯河・玉置・山本といった紀伊の国人領主の接待を受けている点も興味深い。(「熊野詣日記」)
九左衛門 きゅうざえもん 生没年未詳 近世後期の小松村(現北山村)炭焼
新宮領では水野家による炭の買い上げが行なわれていたが、文化4年(1807)出炭の増加が命じられる。九左衛門は不安を覚えるもののこれに応じ、その後他村の炭山の買入を計画、水野家にその資金の借入を願い出る等積極的に出炭に努める。しかし炭の買上値段が低かったため、12年頃には炭焼の休業を申し出ている。(「近世史料」5)
清姫 きよひめ - 伝承の人物
牟婁郡真砂(現中辺路町)の清次庄司の宿屋の妻女。「道成寺縁起」によると、延長6年(928)8月奥州から熊野参詣に来て宿泊した美男の僧に恋し、夜中に寝床に忍び入り契りを結ぼうと迫ったところ、その僧に参詣の途中なので2、3日後の下向の際に約束を果たすといって断られた。待てどもその僧は現れず、裏切られたことを知って追いかけ、日高川を渡るときに蛇身に変じて道成寺(現川辺町)の鐘の中へ隠れた僧を焼き殺したという。のちこの妻女は清姫、殺された僧は安珍と呼ばれるようになる。この説話は長久年間(1040〜1044)に編さんされた「大日本法華経験記」をはじめとして「今昔物語集」などに見える。(「道成寺縁起」)
教算 きょうさん 生没年未詳 鎌倉時代の僧侶
熊野の人勝忍房と称した。初め浜の宮(現那智勝浦町)に住む。海上に千手観音の小像を感得し、草庵にこの像を安置して補陀洛寺と号した。のち観音の夢告により千手観音を負って高野山に入山。千手観音の巨像を彫刻しその髻に小像を納め堂舎を建立して安置。この堂舎はのち補陀洛院となる。(「諸院家折負輯」、「密教大辞典」)
行尊 ぎょうそん 1057〜1135 平安時代後期の僧侶 源基平の子
園城寺の明尊に師事。大峯・熊野などをめぐり修行を積む。永久4年(1116)園城寺長吏。元永元年(1118)四天王寺別当。保安4年(1123)天台座主となる。天治2年(1125)大僧正。覚鑁の高野山大伝法院の建立を援助。西国三十三ヵ所巡礼の創始者とする説もある。(「古代史料」1)
熊野屋彦太郎 くまのや ひこたろう 生没年未詳 近世前期の銅吹屋
和歌山に住み承応年間(1652〜1655)から大坂道頓堀新難波東の町で銅吹屋を営む。延宝3年(1675)江戸で銅輸出業の許可を求めて大坂の福山屋次郎右衛門・新庄屋清右衛門と共に願書を提出。彦太郎だけが旧来からの銅吹屋で熊野屋彦三郎同家ということで聞き届けられる。6年6月ごろ紀州藩の札元として茶屋小四郎と共に藩札を発行。幕府の禁止により10月ごろ発行停止となる。貞享4年(1687)から平野村(現那智勝浦町)二ノ谷銅山の採掘を行なったのをはじめ田垣内村(現那智勝浦町)西山・樋ノ谷銅山・東山なども掘っている。(小葉田淳「銅吹屋熊野屋と熊野銅山」、「近世史料」5)
畔田翠山 くろだ すいざん 1792〜1859 幕末の藩本草学者
十兵衛・紫藤園・諱伴存 譜代の家臣。和歌山湊南仲間町に住む。小原桃洞・本居泰平に師事。儒学を学んだのは山本楽所からだったらしい。のち切米20石の藩医師、西浜御殿の薬草園を管理する。文政5年(1808)加賀白山での採集旅行を手始めに、海産動物を中心にした調査のため諸国を巡る。これらの活動は雑賀屋安田長穂の援助で行われたという。安政6年6月18日熊野採薬旅行中に本宮村で没。日本最初の水産動物誌「水族志」や諸物の名称を考察した大著「古名録」など多くを著わす。門下に堀田龍之助・栗山修太郎がいる。(山口藤次郎『畔田翠山翁伝』)
源右衛門 げんえもん 生没年未詳 近世中期の樫野浦(現串本町)の民
同浦内の黒山を古座浦と高川原村(現古座川町)は自分の持山と主張、古座組大庄屋もそれを認めて黒山の松の入札売を命じた。文化5年(1808)10月源右衛門は樫野浦の百姓惣代として大庄屋に松の入札売の延期を願い出る。しかし、願が退けられ、売払代金の半分が樫野浦に渡されたにすぎなかった。翌6年この取扱に納得できない源右衛門たちは大庄屋に売払代金の全額引渡しを要求。樫野・古座両浦は以前から漁場や村領をめぐってたびたび争っていたが、その決着も同時に求めている。(「近世史料」5)
後白河上皇 ごしらかわじょうこう 1127〜1192 熊野参詣は34回
父は鳥羽天皇。母は権大納言藤原公実の娘待賢門院璋子。同母兄崇徳上皇の皇子重仁親王と即位を争うが、久寿2年(1155)10月鳥羽上皇・美福門院・関白藤原忠実らの後援を受けて即位。両派の争いから鳥羽上皇の死後、保元の乱となるが、これに勝利し内裏造営・記録所設置・荘園整理の推進など政治の立て直しを行なう。保元3年(1158)二条天皇に位を譲り、院政を開始。平治の乱後、平清盛と結ぶが、次第に対立し、治承3年(1179)清盛により院政が停止される。のち源頼朝・木曽義仲が挙兵し内乱状態となると、清盛は上皇に院政の再開を求め、後白河院政が復活。義仲の入京により平家が安徳天皇とともに京落ちした後も京都にとどまる。平家滅亡後は鎌倉の頼朝勢力を押えるため源義経に頼朝追討を命ずるが、義経の敗北により院は窮地に陥り守護・地頭設置などの頼朝の要求を受け入れる。義経をかくまった奥州藤原氏が滅亡すると朝幕関係は安定し、建久元年(1190)頼朝は上洛して「天下落居」が実現。院は芸能とともに仏教にも深く傾倒し、熊野参詣は永暦元年(1160)以来34回に及ぶ。また、仁安4年(1169)3月には高野山に参詣。寿永2年(1183)播磨国揖保郡福井荘、文治2年(1186)備後国世羅郡太田荘を高野山大塔領として寄進している。(「古代史料」2)
後鳥羽上皇 ごとばじょうこう 1180〜1239 熊野参詣は28回
父は高倉天皇。母は修理太夫坊門信隆の娘七条院殖子。寿永2年(1183)安徳天皇が平家とともに都落ちした後、元暦元年(1184)7月後白河院政のもとで神器のないまま即位。建久9年(1198)正月土御門天皇に譲位し、土御門・順徳・仲恭の3代の天皇の時代にわたり院政を行なう。承久年間になり、将軍実朝の暗殺による鎌倉幕府の動揺や、摂津国長江・倉橋両荘の地頭設置をめぐる執権北条義時との対立、院の熊野詣に西面の武士として供奉した御家人所領の義時による没収事件などが起こると、院と一部廷臣間で討幕の気運が高まり、承久3年(1221)5月承久の乱を起こす。敗れた院は隠岐に流され、帰京できぬまま没した。治世中は広大な院領荘園や受領の奉仕を背景に頻繁な御幸を行ない、熊野へは28回参詣。その様子は藤原定家の「後鳥羽院熊野御幸記」、藤原頼資の「後鳥羽院・修明門院熊野御幸記」に見える。建暦2年(1212)御幸の際には日高郡薗宝郷(現御坊市)から新宮社に60石、那智社に12石を寄進。承久3年3月には尾張国牛野荘を那智社に寄進。また、高野山への信仰も篤く、建永2年(1207)3月に御幸を行ない、承久元年には那賀郡麻生津荘(現那賀町)を金剛峯寺に寄進している。(「古代史料」2)
佐々木布綱 ささき のぶつな 1711〜1789 近世中期の家臣
富右衛門 先祖は季原と称し熊野に住む郷士であったという。宝暦7年(1757)佐八手代として出仕、給銀150目。8年9月伊都地方手代、給銀250目。安永2年(1773)5月会所物書となる。天明9年正月没。(佐々木家「系譜」)
修明門院 しゅめいもんいん 1182〜1264 後鳥羽上皇の後宮
名は重子。父は従二位藤原範季。母は中納言平教盛の娘教子。建久8年(1197)順徳天皇を生み、承元元年(1207)女院となる。承久の乱で後鳥羽上皇が敗北した後に出家。熊野信仰にあつく、分る限りでも9回の参詣を行なっている。6回目の承元4年(1210)4月の参詣の様子は、殿上人として供奉した藤原頼資の記した「修明門院熊野御幸記」に、後鳥羽上皇に同行した建保5年(1217)9月の参詣も頼資の「後鳥羽院・修明門院熊野御幸記」にそれぞれ伝えられている。文永元年没。(『神道大系』)
白河上皇 しらかわじょうこう 1053〜1129 熊野参詣12回
後三条天皇の子。延久4年(1072)に即位。応徳3年(1086)位を譲り以後、堀河・鳥羽・崇徳の3天皇の代にわたって院政を行なう。藤原氏から政治の主導権を奪い、専制君主として君臨。仏教に深く傾倒し、造寺造仏・参詣を次々と行なう。高野山には3度参詣し、第1回目の寛治2年(1088)には大塔再建を約し、康和5年(1103)に完成させる。このときの参詣の様子は「白河上皇高野御幸記」として残されており、同記には高野山中で高い声を発すると雷雨を呼ぶことになるというこの地の言い伝えを守り、同行者に高声を禁じたことなどが記されている。また、同記には参詣道に建てられていた町卒都婆に関する記述があるが、治安3年(1023)の藤原道長、永承3年(1048)の藤原頼通の参詣の記録にはその記述がないため、11世紀中ごろに町卒都婆が整備されたと考えられる。またこの後、嘉承2年(1107)には完成した大塔の仏聖灯油料所として名手荘を寄進。2度目の寛治5年には、三十口上人料として安芸国能美荘を寄進し、勧進活動を行なう僧の編成が行なわれた。3度目の大治2年(1127)には、鳥羽上皇とともに東西両塔の落慶に臨んでいる。また、熊野山への信仰も篤く、生涯12度の熊野参詣を行なっている。(白河上皇高野御幸記」「高野山興廃記」)
新蔵 しんぞう 生没年未詳 近世後期の宇久井村(現那智勝浦町)の民
天保10年(1839)2月漁師惣代孫三郎らと共に鰯や川魚がいなくなったことを理由に、銅の採掘の中止を願い出ている。(「近世史料」5)
信誉 しんよ 1562〜1635 浄土宗光恩寺(現和歌山市)開山
慧伝・禿翁 三河の生まれ。武蔵川越蓮寺の国誉上人の弟子となり、のち江戸増上寺の観智国師について修学する。天正年中、熊野詣の際に那賀郡小倉(現和歌山市)まで来た時、津田算正に請われて堂宇を建て光恩寺と称した。慶長の初めには粉河運行寺を中興、のち大和・出雲・因幡などで諸寺を草創する。慶長15年(1610)光恩寺に戻り教えを広める。寛永12年3月1日没。(『南紀徳川史』7)
実覚 じつかく 生没年未詳 平安時代後期の僧侶 粉河寺第13代別当
久安6年(1150)別当職を解かれ、南都(奈良)に移住。安元2年(1176)春熊野参詣の途中、粉河寺の前を過ぎ、帰寺の思いを抱いたが、ついにかなわず、南都で一生を送ったという。(「粉河寺縁起」)
常助 じょうすけ 生没年未詳 近世後期の宇久井村(現那智勝浦町)の民
寛保元年(1741)11月同村の庄太郎と宇久井村の口前所(諸産物や商品に課税をする役所)に船の修理費や新船購入資金の借入を願い出ている。(「近世史料」5)
浄蔵 じょうぞう 891〜964 平安時代中期の修験者
京都の人 父は三善清行。易学・天文学・医学・音楽などにすぐれた才能を持つ。延喜18年(918)熊野参詣の途中で、父の死を悟り帰京。死後5日後に加持したところ蘇生したという。応和4年11月21日没。(「拾遺往生伝」「帝王編年記」)
徐福 じょふく 生没年未詳 中国秦時代の人 方士
徐市ともいう。「史記」秦始皇本紀によると秦の始皇帝は仙人の方術を好み、不老不死の薬を求めていた。徐福は始皇帝にとり入り、探索を申し出て童男・童女数千人を連れて三神山(蓬莱・方丈・瀛州)に向かったという。この話はのちに始皇帝が不老不死の薬を求めて日本に来たところ、日本側が五帝三皇の遺書といわれる古典を求めたので始皇帝は徐福を行かせてこれを全部送って来たが、この時期はまだ始皇帝が梵書坑儒を行う以前だったので、中国には既にない孔子の全経が日本には残っているという話に変化している。徐福が到着した地は新宮だという伝説があり、紀州藩徳川頼宣は儒者李梅渓に碑文を書かせている。(「史記」「神皇正統記」)
神武天皇 じんむ てんのう - 伝承の人物 初代天皇
日向から軍を率いて東征し、浪速から大和に入ろうとしたが、登美能那賀須泥毘古に阻まれたため南に迂回し、熊野(現新宮市)に至る。このとき、大熊が現れ、たちまち気力を失い、軍勢もみな倒れてしまった。しかし、熊野之高倉下の助力によってこの危機を脱し、八咫烏の先導で吉野を越え、大和に入ることに成功。大和の勢力を各地に破り、橿原宮で即位した。(「古事記」「日本書紀」)
増基 ぞうき 生没年未詳 平安時代中期の僧侶 歌人
三十六歌仙の一人。熊野紀行・遠江紀行を記した「いほぬし」の作者。「いほぬし(庵主)」は増基の自称。一説に増基の生存期間は朱雀朝(930〜946)から、一条朝(986〜1011)。「いほぬし」所収の熊野紀行は正暦末年(995)から長徳年間(995〜999)に成立とされるが定説はない。熊野への旅は、10月10日に京都を出発し、住吉(現大阪市)・信太(現和泉市)から紀伊国に入り、吹上浜(現和歌山市)・鹿瀬山(有田郡と日高郡の境)・岩代(現南部町)・南部浜・牟婁湊(現田辺市)を経て本宮に至り、11月21日本宮を立ち、御船島(現新宮市)・那智の滝を巡って、花の窟(現熊野市)から伊勢に向かっている。本宮には庵室が二、三百もあり、参詣の人々が顔を被い蓑を着て、ここかしこに数知れず集まって読経するなど参詣者の様子を観察している。(増淵勝一『いほぬし本文及索引』)
増皇 ぞうこう 生没年未詳 平安時代中期の僧侶 熊野別当
増慶の3男。長保2年(1000)ごろ別当職をめぐって京寿という僧侶が朝廷へ訴えたため、朝廷は京寿の申し立てを認め、増皇に替えて京寿を別当に認定した。しかし熊野の山僧等の訴えにより、京寿の別当就任は保留されることとなった。(「権記」)
増誉 ぞうよ 1032〜1116 平安時代後期の僧侶 熊野三山検校
権大納言藤原経輔の子。白河・堀河両天皇の護持僧。6歳で園城寺に入り行円について剃髪、行観に灌頂を受ける。寛治4年(1090)白河上皇が初めて熊野に参詣したときに、先達をつとめる。その賞として初めて熊野三山検校に補任される。8年四天王寺別当。康和2年(1100)園城寺の長吏。長治2年(1105)天台座主。同年大僧正となる。聖護院を造り、熊野神を勧請して天台修験の基礎を築いた。永久4年正月29日没。(「寺門伝記補録」「真言伝」)
平清盛 たいらの きよもり 1118〜1181 平安時代後期の武家の棟梁
平忠盛の嫡男。白河上皇の落胤であったとする説が有力。左兵衛佐・中務大輔・肥後守・安芸守を歴任し、保元元年(1156)7月保元の乱では、後白河天皇方に手勢300余騎を率いて参戦し勝利に導く。乱後その勲功によって播磨守となり、3年大宰大弐に昇進。平治元年(1159)12月清盛一族の熊野詣の留守中に京で藤原信頼・源義朝の武力クーデターが勃発すると、切部宿(現印南町)でこの報を知り、湯浅宗重や田辺の熊野別当湛快らの軍勢を得て急ぎ京へとって返し、信頼・義朝軍の追討に成功する。この平治の乱の勝利により権力は確立し、検非違使別当・権大納言・内大臣を経て仁安2年(1167)太政大臣・従一位に昇進。平治の乱以降、紀伊の国務支配にも力を入れ、自らの政所家司の源為長を紀伊守に推挙。この時期から平氏権力を背後に持つ紀伊国衙勢力と高野山金剛峯寺との抗争が激化し、紀伊国内の高野山領荘園がたびたび国衙により顚倒される。さらに安元元年(1175)弟の頼盛を紀伊国知行国主に推挙して平氏による紀伊国支配体制を確立させる。治承3年(1179)11月クーデターを敢行し、後白河院を鳥羽殿に幽閉して全権を掌握。しかし、権門寺社を中心に反平氏勢力が結集し、翌4年5月には以仁王・源頼政が挙兵。全国的な内乱に発展してゆく。同年8月の源頼朝挙兵から半年後の養和元年閏2月内乱を収束させることができないまま、熱病により没す。(田中文英「平氏政権の在地支配構造」、「平治物語」)
平維盛 たいらの これもり 生没年未詳 平安時代末期の武将 三位中将
平重盛の長男。治承4年(1180)源頼朝の挙兵に際し総大将として東下したが、12月富士川で戦わずして敗走。寿永2年(1183)5月には越中砺波山で源義仲の軍勢に大敗した。都落ちの後、3年2月讃岐屋島の平氏陣営より脱出した。その後の動向は定かではないが、護摩壇山(現龍神村)で護摩を焼いて自分の身を占い、奥湯川に隠れたとも、出家して熊野に参り、3月28日27歳で那智の浜で入水したとも言う。(「平家物語」『紀伊続風土記』)
平重盛 たいらの しげもり 1138〜1179 平安時代後期の武将
平清盛の長男。保元・平治の乱で父とともに功績をあげ、従二位内大臣に上る。熊野神社を信仰し、熊野参詣は4度。死去する直前の治承3年(1179)に参詣している。病のため出家した重盛のこの時の参詣の目的は、後世の安穏を実現するためのものであった。同年3月に熊野参詣出発のための精進を始めた時には既に吐血を繰り返すまでに病状が悪化しており、帰京後の8月に没した。(「山槐記」)
楯ヶ崎浪之助 たてがさき なみのすけ 生没年未詳 近世中期の藩御抱力士
熊野勝浦(現那智勝浦町)で生まれる。元禄中に40石8人扶持金20両。6尺2寸の大男で、ダンビラ船の帆柱に熊野炭25表を担って歩いたという。(『南紀徳川史』7)
湛快 たんかい 1099〜1174 平安時代後期の僧侶 熊野別当
長快の4男。法印。権大僧都。久安2年(1146)熊野別当に就任。はじめ本宮にいたが田辺に進出し、新宮に拠る別当家と対立。平治元年(1159)平清盛の熊野参詣途中に京で源義家が挙兵をしたとき清盛を支援している。娘は平忠度の妻。南部荘の下司でもある。承安4年没。(宮地直一『熊野三山の史的研究』)
湛増 たんぞう 1130〜1198 平安時代後期・鎌倉時代の僧侶 熊野三山別当
本拠は田辺。源頼朝とあい前後して反平家の兵を挙げ、伊勢に攻め込む。また阿波に押し入って資材・米穀を略奪。文治元年(1185)熊野水軍を率い源義経に味方して屋島・壇ノ浦の合戦で活躍した。南部荘下司でもあった。建久9年没。(『大日本史料』4-6、宮地直一『熊野三山の史的研究』)
仲算 ちゅうさん ?〜976 平安時代中期の僧侶
興福寺空晴の弟子。6、7歳のころ興福寺北門付近で空晴に拾われた。安和2年(969)熊野山に参詣し、那智の滝下で般若心経を講じたところ、千手千眼観音の像が現れた。そこで仲算は岩の上に昇るが、彼の姿は草鞋を残すだけで、消えてしまったという。(「元亨釈書」)
忠蔵 ちゅうぞう 生没年未詳 近世後期の大沼村(現北山村)庄屋
文化10年(1813)8月十津川郷中村入鹿助之丞の訴えによると、十津川郷は北山郷が幕府へ納める材木の運送を勤めていたが、この運送を大沼村の筏職に請負わせたところ運賃や運送に不埒があったという。北山組大庄屋の取り調べを受けた忠蔵はこれに反論。翌年、筏賃や洪水のときの取りきめを定めてこの論争は決着した。(「近世史料」5)
津久 つぐ ?〜1614 北山一揆勢
大和北山郷前鬼(現下北山村)の修験山伏鬼継のことと考えられる。慶長19年(1614)大坂冬の陣で大坂方の求めに応じて土豪を結集させ蜂起。新宮城主浅野忠吉が大坂に向けて出陣したすきをつき、一揆勢は新宮まで押し寄せるが鎮圧される。津久は山中へ逃げたが雪のため凍え死んだという。(「近世史料」3、「自得公済美録」『北山村史』)
徳本 とくほん 1758〜1818 浄土宗一行院住職
蓮社・誉 日高郡志賀村(現日高町)の田伏氏に生まれる。9歳のころ出家を希望したが父母に許されなかったという。天明4年(1784)許しを得て6月財部村(現御坊市)往生寺大円によって得度。翌年大滝川月照(正)寺で修行、千津川村(現川辺村)百姓に請われて7年を過ごす。寛政6年(1794)5月ごろ法然の聖蹟巡拝のために上洛、9月には熊野に詣でる。享和元年(1801)10月摂津勝尾寺松林庵に移る。文化9年(1812)5月梶取の総持寺で7日間とどまった時には、日々群集2万人、船200艘が集まったという。14年江戸増上寺大僧正典海に請われ小石川一行院を建てて布教を行う。文政元年10月6日没。「徳本行者法語」「勧誡」などを著わす。(『南紀徳川史』7)
鳥羽上皇 とばじょうこう 1103〜1153 熊野参詣23回
堀河天皇の皇子。嘉承2年(1107)即位。保安4年(1123)譲位。以後、崇徳・近衛・後白河の3天皇の代にわたって院政を行なう。仏教に深く傾倒し、熊野参詣は23回を数える。このうち、長承3年(1134)待賢門院を伴い参詣。この参詣の本宮からの帰路の様子は、同行した源師時の日記「長秋記」に記される。また、久安3年(1147)と4年の2度の参詣の際、院領荘園の神野真国荘に路次の消費物が課された時に作成された文書が残っており、多くの参詣のための物資が現地で調達されていたことが知られる。また、高野山へも3度参詣し、1回目の天治元年(1124)の参詣では、東塔を白河上皇、西塔を鳥羽上皇の発願として造立することを約し、2回目の大治2年(1127)では、その落慶に白河上皇とともに参加し、安芸国可部荘を寄進。3回目の長承元年(1132)では西塔領として安芸国沼荘を、また伝法院の財源として石手・弘田・山東・岡田・相賀・山崎・志富田の7荘を寄進している。さらに翌2年には、若狭・越前の封戸を施入するなど、高野山の経済的基盤確立に大きな役割を果たした。(「高野山御幸御出記」「神護寺文書」「長秋記」「高野山興廃記」「高野春秋編年輯録」)
鳥居禅尼 とりいの ぜんに 生没年未詳 鎌倉時代の女性 称丹鶴姫
父は源為義。母は熊野別当長快の娘。源行家と同腹の姉弟。長快の孫行範に嫁し、行快を生む。建久5年(1194)9月源兼忠の所領であった但馬多々良岐荘の地頭職を得る。「吾妻鏡」承久4年(1222)4月27日条に、「鳥居禅尼所領の紀伊国佐野荘地頭職は尼一期の後、子息長詮法橋相伝すべきの由仰せらる」とあるところから、このころには没していたことが知られる。(「吾妻鏡」、『熊野市史』上)
長沢伴雄 ながさわ ともかつ 1808〜1859 幕末の家臣
十蔵・衛門・絡石舎 家臣吉田刑部右衛門次男として和歌山に生まれる。文政3年(1806)父に従い伊勢田丸(現玉城町)に赴き国学者冨樫広蔭・本居春庭に学ぶ。7年和歌山に戻り本居大平門弟。天保2年(1831)家臣長沢六郎政寛養子。7年書写御用。9年内々御用の節西浜御殿奥にも勤めるよう命じられる。10年内命により上京、有職を学ぶ。嘉永5年(1852)6月熊野三山貸付方勤。6年山中筑後守一党の没落に伴い6月15日職を免じられ、翌日養父六郎のもとに永押込となる。安政2年(1855)6月5日に再び罪を得、揚座敷入りに処せられた。6年11月27日没。著作に「神風挫夷軍談」・「絡石の落葉」・「装束図考証」・「兵器図考証」など多数。(『南紀徳川史』2、6、『木国歌人伝』)
長沢芦雪 ながさわ ろせつ 1754〜1799 近世中期の画家
氷計・引裾 丹波国篠山の人。山城国淀の人ともいわれる。大胆な構図と奔放な筆さばきを駆使して細密画から大作をこなし、円山派のなかでは異色の存在であった。天明6〜7年(1786〜87)にかけて約1年間、師円山応挙の名代として紀南に来遊、京都東福寺虎関派の末寺で画技をふるった。成就寺(古座町)、無量寺(串本町)、草堂寺(白浜町)の障壁画群などがそれである(障壁画はすべて国指定重要文化財)。また帰途立寄った高山寺(田辺市)でも筆をとったが、「唐獅子図」(成就寺)、「竜虎図」(無量寺)、「枯木に白鳩図」(草堂寺)、「寒山拾得図」(高山寺)などに代表される作品群はいずれも芦雪の芸術生涯にとって記念すべき力作ぞろいである。寛政11年没。(『紀伊国名所図会』、和歌山県立博物館『南紀諸寺院の永沢芦雪画』)
長田高景 ながた たかかげ 生没年未詳 浅野家臣 正政所
代々熊野速玉大社宮司で堀内氏に仕えたという。高景は慶長6年(1601)幸長に召し出される。大坂冬の陣では熊沢兵庫組に属し700石。大坂から戻り北山一揆鎮圧に動く。元和5年(1619)広島に移る。(『広島県史』「自得公済美録」「南紀古士伝」)
名倉永貞 なくら のぶさだ 1702〜1751 近世中期の家臣
伝吉 紀州生まれ。享保14年(1729)正月、熊野三山御修覆方物書として給銀150目2人扶持で出仕。16年12月京金蔵手代、切米7石2人扶持。19年熊野筋在方御用を取り扱う。延享2年(1745)8月豊松付物書。養子は日高郡上越方村(元美山村)百姓の悴。(名倉家「系譜」)
西左惣次 にし さそうじ 生没年未詳 近世中期の新宮領北山組大庄屋
文化2年(1805)財政逼迫に苦しむ新宮水野家は大庄屋や大株の者を肝煎として炭買上の統制を強化し、14万俵を出炭し利益を得ようとした。左惣次等大庄屋や庄主はこれに不安を覚えいくつかの申し入れを行うが結局14万俵の出炭に同意している。(「近世史料」5)
野沢次郎兵衛 のざわ じろべえ 生没年未詳 幕末の家臣 社寺吟味役
熊野三山寄附金貸付方頭取申合兼勤。嘉永3年(1850)12月14日熊野三山修復御用掛を命じられる。山中筑後守一党没落に伴い6年4月28日刑小普請仰せつけられる。(『南紀徳川史』3)
畠山満家 はたけやま みついえ 1372〜1433 室町時代の武将
尾張守・左衛門督。法名は道端。畠山基国の嫡子。応永の乱以前に足利義満の勘気を被るが、応永15年(1408)5月の義満の没後、赦免されて畠山家の家督を継ぎ、河内・越中・紀伊と大和宇智郡(現五条市)の守護となる。足利義持の下で2度管領をつとめ、義持が没すると、三宝院満済と図って、足利義教を将軍に迎える。15年9月紀伊国の根来寺領7ヶ荘(石手・山崎・弘田・岡田・山東・相賀北・直川)を安堵し、その課役と守護使入部を免除。24年11月三上荘重根郷願成寺領(現海南市)百姓と惣郷百姓の訴論を裁定している。翌25年4月には熊野社領を侵犯し、田辺で熊野社の軍勢と合戦に及ぶ。永享5年(1433)7月丹生屋村(現粉河町)と名手荘(現那賀町)の用水相論を調停するが、守護の軍勢が高野山に登ったため、弾圧を恐れた行人方が山上二千余坊を焼いて離山する事態に陥っている。永享5年9月19日没。(今谷明『守護領国支配機構の研究』、『粉河町史』2、ほか)
左甚五郎 ひだり じんごろう 生没年未詳 近世初期の建築・彫物の名人
刀禰松・諱利勝・姓伊丹。文禄3年(1594)の生まれとも伝えられる。足利義輝の家臣伊丹正利の子。播磨国明石の生まれ。根来東坂本(現岩出町)の出ともいわれる。慶長12年(1607)京都伏見の禁裏大工棟梁遊左与平次の弟子となり、根来寺の再建や京都方広寺の鐘楼建立に従う。元和6年(1620)江戸へ出て、徳川家大工棟梁甲良宗広の女婿となり、以降堂宮大工の棟梁として、あるいは宮彫などの彫刻家として名を知られる。日光東照宮の眠り猫、京都知恩院の鶯張り、上野寛永寺鐘楼の上り龍は甚五郎の作品といわれ、特に有名。紀州にも和歌山東照宮や熊野速玉大社などに甚五郎作と伝えられる彫刻が多数存在する。のち高松生駒藩の大工頭・禁裏大工棟梁・法橋の官位を得て、晩年は客分棟梁として高松藩主松平頼重に仕え、その地で没した。慶安4年(1651)没ともいう。作品の多さや史料的裏付けの乏しさ、伝承の内容などから伝説上の人物とする説もある。(『南紀徳川史』7)
美福門院 びふくもんいん 1117〜1160 鳥羽上皇の皇后
父は権中納言藤原長実。母は左大臣源俊房の娘。保延5年(1139)5月に近衛天皇を生み、永治元年(1141)3月に准三后。同年12月皇后。久安5年(1149)8月女院となる。近衛天皇の没後、崇徳上皇の院政を阻止して後白河天皇を即位させ、保元の乱の原因をつくる。保元元年(1156)6月鳥羽上皇が危篤に陥ると出家。上皇が没するとその菩提を弔うため平治元年(1159)7月2日高野山に荒川経蔵(現六角経蔵)を建立し、自ら書写した金泥一切経を納める。同月17日毎年上皇の忌日7月2日に一切経会を修するように命じ、その供料として荒川荘を寄進。女院の高野山への信仰はあつく、遺言により高野山に納骨。また、熊野へは鳥羽上皇とともに3回参詣している。(「古代史料」2)
藤原定家 ふじわらの さだいえ 1162〜1241 鎌倉時代の貴族・歌人
正二位権中納言。父は「千載和歌集」の撰者藤原俊成。ていかとも呼ばれる。歌の才能を後鳥羽院に見出され、建仁元年(1201)和歌所寄人となる。同年後鳥羽院9回目の熊野参詣に同行。その様子を「後鳥羽院熊野御幸記」として書き残す。同記に数首の和歌を収めているが、紀伊については、湯浅・瀧尻〜近露・発心門で詠んだ歌を収める。発心門で詠んだ歌は宿所の門柱に書き付けている。この参詣は定家にとって厳しいもので、本宮に入る直前から身体の不調を訴えている。帰京後、「新古今和歌集」撰者に選ばれる。承久2年(1220)院の咎めを受けて謹慎。承久の乱後、後堀河天皇の下で復帰し、「新勅撰和歌集」を撰進した。仁治2年没。(「名月記」)
藤原為房 ふじわらの ためふさ ?〜1115 平安時代後期の貴族
白河上皇に抜擢され、最後には公卿に列した院の近臣。院政の開始とともに政界に進出した実務官僚貴族の代表的存在。日記「大御記」を残しその中で永保元年(1081)9月から10月にかけての自身の熊野参詣の様子を記している。簡略ながら、途中の宿泊地、奉仕に当たった荘園・人物が具体的に記されている。(「古代史料」1)
藤原経俊 ふじわらの つねとし 1214〜1276 鎌倉時代の貴族
実務官人を輩出した勧修寺流の宗家吉田家の人。日記「経俊卿記」を残す。その中に彼自身の熊野詣の様子が記され、途中の紀州の宿泊地や接待の人々のこと、新宮と那智山のことがくわしく記されている。嘉正元年(1257)の本宮参拝は9度、新宮・那智は7度目であった。(『図書寮叢刊』)
藤原経光 ふじわらの つねみつ 1213〜1274 鎌倉時代の貴族
広橋経光とも称す。中流実務貴族で最終官歴は権中納言民部卿。二十数回も参詣した父頼賢に付き添い、彼も数度の熊野参詣をしている。そのうち、寛喜元年(1229)の参拝の様子が彼の日記「民経記」に記されている。(『大日本史料』5-5)
藤原頼資 ふじわらの よりすけ ?〜1236 鎌倉時代前期の貴族
従二位権中納言。広橋家の祖。熊野信仰に篤く二十数回参詣。うち8回の記録を「頼資卿熊野詣記」に、2回を「修明門院熊野御幸記」「後鳥羽院・修明門院熊野御幸記」に収める。修明門院・鳥羽院の参詣が紀伊国司をはじめとする受領の奉仕でなされたのに対し、頼資個人の参詣は自己の経済力によって行なわれたため、建永2年(1207)には参詣を計画しながらも経済的事情により断念している。「頼資卿熊野詣記」によれば、参詣の動機の一つは自分の一門で幸運に恵まれた者はみな、熊野に帰依しているからということであった。中級貴族の間に熊野信仰が広がっていたことがうかがわれる。この場合の幸運とは官位昇進のことをいい、頼資自身、承久のころには参詣のたびに昇進がかなっている。(「頼資卿熊野詣記」「修明門院熊野御幸記」「後鳥羽院・修明門院熊野御幸記)
弁慶 べんけい 生没年未詳 鎌倉時代の僧侶
武蔵坊と号す。源義経の家来。京都五条橋で大刀を奪うため義経と対決して逆に敗れ、忠誠を誓って以来奥州衣川の合戦で敵の矢を受けながら立ったまま死ぬまで、生涯を通じて義経の忠実な家来として活躍する物語は伝説。弁慶の出生から死に至るまでを詳細に描く室町時代に書かれた「義経記」以後のこと。「義経記」によれば熊野別当弁せうの子とされている。(「吾妻鏡」「平家物語」、『日本架空伝承人名辞典』)
北条政子 ほうじょう まさこ 1157〜1225 鎌倉時代の政治家
源頼朝の妻。頼家・実朝の母。正治元年(1199)頼朝が没すると、父北条時政・弟義時とともに幕政を支え、尼将軍と呼ばれる。承元2年(1208)熊野に参詣。建保6年(1218)熊野参詣のため上洛するが叙位を理由に取り止め、鎌倉に戻っている。建暦元年(1211)高野山に禅定院を建立。禅定院をはのち金剛三昧院と改号した。嘉禄元年没。(「吾妻鏡」「高野春秋編年輯録」)
堀内氏善 ほりうち うじよし 1549〜1615 織豊時代の武将
新次郎ともいい、安房守を名乗る。新宮城主。堀内氏は代々熊野社家の一人。天文18年(1549)水軍を用いて九鬼氏を攻め、永禄元年(1558)内紛に乗じて有馬氏を併合。さらに諸勢力を降して牟婁郡から伊勢南部にかけて勢力圏を拡大。天正9年(1581)織田信長から熊野社領分を知行として与えられ、信長に仕え、13年の紀州攻めでは秀吉に味方し、本領を安堵される。その後も豊臣政権の配下となり、同年の四国攻めには熊野水軍を率いて参加。翌14年豊臣秀長から命じられ、一揆の鎮圧に向かう。文禄元年(1592)から始まる朝鮮の役では水軍として574人の軍勢を率いて参陣し、蘇州古城を守備。慶長3年(1598)山地一揆の鎮圧にも出動。豊臣期の知行高は2万7000石。5年の関ヶ原の合戦では西軍に味方し、九鬼嘉隆とともに新宮城を守るが、敗れて奔走。のち肥後の加藤清正に2000石で仕え、慶長20年4月10日熊本で没す。新宮市の全龍寺が堀内氏の屋敷跡と伝えられている。(「寛永諸家系図伝」9、笠原正夫「徳川頼宣の入国と所領支配の確立」)
堀内大学 ほりうち だいがく 生没年未詳 北山一揆の中心人物
牟婁郡長原村(現熊野市)の土豪。旧新宮城主堀内氏善の一族らしい。慶長19年(1614)大坂冬の陣で大坂方に付き北山組村々へ触状を回し一揆を結集させる。(「自得公済美録」『北山村史』)
丸山応挙 まるやま おうきょ 1733〜1795 近世中期の画家
丹波国の人。京都画壇で活躍。沈滞気味の江戸中期の画壇にあって、写生風を樹立して新風を起こし、円山派の祖となり、また画壇の重鎮の一人となった。まだ修業にいそしんでいたころ、京都東福寺で参禅中、草堂寺(白浜町)の棠陰、無量寺(串本町)の愚海と親しくなり、一派の匠となったら両寺のために障壁画を描くことを約束したという。大家となった応挙は天明6年(1786)高弟長沢芦雪を自分の名代として紀南に派遣し、両寺に障壁画を届けさせたという。草堂寺の「雪梅・雪笹・松月図」、無量寺の「波上群仙・群鶴図」の障壁画がそれである(いずれも国指定重要文化財)。寛政7年没。(『紀伊国名所図会』、和歌山県立博物館『南紀諸寺院の長沢芦雪画』)
丸山士美 まるやま ただよし 1762〜1815 近世後期の家臣
ト菴・元章 先祖は熊野郷士という。のち日高郡丸山村(現御坊市)に居住、和歌山城下へ移る。士美は文化9年(1812)御番医師、7人扶持。医学所学頭。11年奥医師となる。文化12年正月没。(丸山家「系譜」)
水野重仲 みずの しげなか 1570〜1621 近世前期の付家老
藤四郎・藤次郎・重信・重央・対馬守・出雲守 祖父忠政は尾張小川城・三河刈谷城城主。父忠分は家康家臣。重仲は天正4年(1576)家康に出仕。16年大番頭5500石。20年武蔵・上総で1500石加増。慶長10年(1605)には伏見城の在番にもあたる。12年12月頼宣の傳。常陸に1万石を与えられ与力12人、鉄砲の者50人を預かる。水戸城に移り頼宣の所領水戸を治める。14年12月頼宣は駿河に転封。重仲に浜松城2万5000石が与えられる。16年安藤直次と共に頼宣の付家老になり頼宣家臣の知行割を行う。19年と20年の大坂の陣にも出陣。元和3年(1617)1万石加増。5年紀州へ移り新宮領3万5000石。与力を水野組与力(新宮与力)としてそのまま預かり新宮へ召し連れる。元和7年11月12日没。(『南紀徳川史』6、『大日本史料』)
水野忠央 みずの ただなか 1814〜1865 幕末の付家老
藤四郎・土佐守 天保元年(1830)12月諸太夫、土佐守。6年8月対馬守忠啓隠居のため家督相続。嘉永5年(1852)12月から隠居治宝付家臣を処罰。6年12月海防のためこれまでの上知分を与えられ、安政2年(1855)正月には浮置・上げ米を免じられる。3月には有田・日高にあった知行地を奥熊野・本宮の村々と村替することを許される。3年6月本藩からの預かりだった新宮与力を与えられ水野氏家来とする。5年6月の将軍継嗣問題では藩主慶福を擁立して南紀派を形成し一橋慶喜を推す一橋派と対立、大奥や井伊直弼の後楯をえて慶福を将軍家定の嗣子とする。万延元年(1860)3月桜田門外の変で直弼が暗殺されたため6月幕府から隠居申し付けられ新宮での慎を命じられる。元治元年(1864)5月慎御免。2年2月25日没。学問にも関心が深く、江戸水野屋敷の漢学所には山田常典・小中村清矩・柳川春三などを招いて講書を行なわせた。その丹鶴書院には数万巻を蔵していたが常典を総裁とし清矩らも加わってこれを編纂、弘化4年(1847)から嘉永7年まで「丹鶴叢書」152冊を刊行している。(『新宮市誌』『南紀徳川史』3)
水野忠幹 みずの ただもと 1835〜1902 幕末の付家老
藤四郎・大炊頭 忠央長男。嘉永5年(1852)諸太夫。万延元年(1860)忠央が隠居したため家督相続。文久3年(1863)天誅組の変が起ったため9月江戸から新宮へ帰着、本宮へ出陣する。慶応2年(1866)の第2次長州征伐では先鋒総督を命じられた藩主茂承に従い、藩後軍総督として6月安芸大野村に進撃。大政奉還直後の3年11月将軍慶喜から茂承へ上洛の催促があったため、模様をさぐるべく先発する。4年正月茂承が鳥羽・伏見の戦に加わらず大坂から帰国したことに嫌疑がかかったため上洛して釈明につとめ、さらに弁明書を提出する。明治2年(1869)6月20日新宮藩知事を仰せ付けられ東京から新宮に戻って士族政策や民治を実施する。4年7月知藩事を免じられた上東京へ戻るよう命じられる。以来東京に居住。35年4月30日没。(『新宮市誌』)
源師時 みなもとの もろとき 1075〜1136 平安時代後期の貴族
正三位中納言。父は左大臣源俊房。有職故実に通じ、白河・鳥羽院の下で諸行事の運営に参与。「おほかたのものゝ上手」と評される。長承3年(1134)正月から2月にかけて鳥羽院・待賢門院の熊野参詣に同行し、本宮から帰途にかけての様子を日記「長秋記」に書き残す。他の熊野参詣記が途中の風景や神事などの儀式を中心に記述するのに対し、「長秋記」は、山伏の峰入りの様子や、僧への供養米配分、院・女院の参詣スケジュールの調整など参詣実務に関する記述が目立つ。このことから師時が実務手腕を見込まれて参詣の同行を命じられたことが知れる。保延2年没。(「今鏡」)
源行家 みなもとの ゆきいえ ?〜1186 平安時代後期の武将
はじめ義盛と名乗る。源為義の10男。源頼朝の叔父。新宮の熊野別当家は姻戚。新宮十郎と呼ばれる。治承3年(1179)ごろ新宮に身を隠す。4年平家討滅の以仁王の令旨を持ち伊豆の頼朝に伝え、さらに甲斐・信濃の源氏のもとへ下る。はじめ源義仲とともに行動するがのち対立し、源義経と組む。文治元年(1185)10月頼朝追討の宣旨を得て頼朝と対立。同年11月義経は紀州地頭になり、行家は四国地頭となる。しかし頼朝に追われ和泉に隠れるが文治2年発見され殺された。(宮地直一『熊野三山の史的研究』)
宮崎半右衛門 みやざき はんえもん 生没年未詳 幕末の家臣
淡水 はじめ奥右筆組頭。弘化4年(1847)9月10日天守再建御用掛。嘉永3年(1850)10月23日和歌御旅所所替普請御用掛。12月14日熊野三山修復御用掛。のち勘定奉行申談勤、600石。山中筑後守一党の没落に伴い嘉永6年(1853)正月16日右筆詰所御用取り扱いを禁じられ5月2日隠居、惣領正作へ450石を相続し寄合。6月16日正作の知行の内350石を召し上げ、慎みに処される。(『南紀徳川史』2、3)
無本覚心 むほんかくしん 1206〜1298 鎌倉時代の僧侶
信濃の人号は無本。房号は心地房。臨済宗法燈派の人。嘉禎元年(1235)東大寺で受戒。のち高野山に入り、行勇・道範に師事して密教・禅を学ぶ。延応元年(1239)3月行勇に従って鎌倉寿福寺に入る。また、京都深草の道元に菩薩戎を受ける。建長元年(1249)に入宋。無門慧開より禅を学び、6年帰国。高野山に入り、高野聖の集団のひとつ萱堂聖を指導。また、萱堂聖の本寺として安養寺成仏院を建立。正嘉2年(1258)由良の西方寺(建国寺)に入る。弘長4年(1264)西方寺の願主願性より同寺を譲り受ける。妙法山・新宮の妙心寺に来たといわれる。永仁6年10月13日西方寺で没す。後醍醐天皇より法燈円明国師の諡号を受ける。(「法燈国師縁起元亨釈書」、五来重『増補高野聖』)
牟婁沙弥 むろの しゃみ 生没年未詳 奈良時代後期の僧
紀伊国牟婁郡出身。俗姓は榎本連、自度(私度)のため法名はない。「霊異記」によると紀伊国安諦(在田)郡の荒田村(現地名不明)に居住し、僧の姿をしながらも俗人としての生活を送っていた。法華経の書写を発願し、心身を浄めて6ヵ月かけて書写し、それを漆皮の箱に入れて保管していたところ、神護景雲3年(769)5月23日、火災にあい、家はことごとく焼けてしまった。しかし皮箱だけは焼けず、法華経ももとのままであったという。(「日本霊異記」)
護良親王 もりながしんのう 1308〜1335 鎌倉時代後期の親王
もりよしと読む説もある。父は後醍醐天皇、母は権大納言源師親の娘親子。大塔宮とも呼ばれる。嘉暦元年(1326)9月出家し尊雲と名乗る。2年12月天台座主となり、延暦寺を後醍醐天皇の倒幕に加勢させるための工作を行なう。元弘元年(1331)天皇の京都脱出の際、幕府軍と戦うが敗れ大和の十津川方面へ潜行。「太平記」によると、熊野参詣路の切目王子から十津川を経て吉野に入ったという。正慶元・元弘2年(1332)12月還俗し護良と改名。令旨を熊野・高野山をはじめ各地に送り倒幕を呼びかける。翌年幕府の攻撃で吉野が陥落すると高野山に入る。倒幕後、征夷大将軍となるが足利尊氏・河野廉子らと対立し、建武元年(1334)10月に捕らえられて足利直義に身柄を拘束され鎌倉の東光寺に幽閉。2年北条時行の攻撃を受けたため鎌倉から脱出することとなった直義の命により淵辺義博に殺害された。(「太平記」)
森部好謙 もりべ よしかね 生没年未詳 幕末の家臣
市之丞 14歳で銀札方へ出仕。熊野三山貸付方出役、勘定見習勝手方助兼勤だった文久元年(1861)11月以来再三にわたり藩財政再建策を建議。在方・町方の身代の大きい者から20万金位の銀札を借り上げ藩札相場の下落をとめること、利益を貪るにすぎない家中勝手賄町人を廃止することを求める。翌2年正月今度は借り上げ仕法を修正し藩札引き替え備え金についての意見書を提出、口六郡の大庄屋・村役人には1郡につき5000両、和歌山市中の大年寄・町役人に2万両、合計5万両、大坂の鴻池善右衛門にも3万両拠出させるよう提案している。(『南紀徳川史』12、「近世史料」5)
安田長穂 やすだ ますほ 1796〜1856 幕末の雑賀屋主人・歌人
長兵衛・魚顔・浜木綿屋 熊野本宮梅の坊内記次男。安田家の養子になる。本居大平に学び加納諸平・長沢伴雄につぐ高弟のひとり。書画にも堪能だった。安政3年2月27日没。(『木国歌人伝』)
山口半左衛門 やまぐち はんざえもん 生没年未詳 近世後期の新宮領北山組大庄屋
同組などの村々では炭焼の他に杉・檜を植えて収入源としていたが、新宮水野家が杉・檜の実態調査を命じた。村々は年貢の増加を恐れ調査の中止を大庄屋に強く申し入れる。天保12年(1841)正月混乱を危惧した半左衛門は三ツ村・大山・敷屋・請川・浅里・三里・川ノ内・相ノ谷各組の大庄屋と共に水野家へ中止を願い出ている。(「近世史料」5)
山田常典 やまだ つねのり 1807〜1863 幕末の国学者
晋・常介・蕗園 伊予吉田藩家臣平井弥平の長男。幼児に世子の侍講。のち家督を弟に譲り各地に遊学。山田と改称する。江戸に出て国学・歌学を学び剛健雄渾の歌風を確立。これに感じた水野忠央に招かれ水野家漢学所督学となる。丹鶴叢書編纂を統轄し弘化4年(1847)から版行を始める。尊王を説き大橋順蔵・久米幹文などの志士と交流したため一時接触が禁じられたという。万延元年(1860)桜田門外の変の際、忠央は隠居を命じられ6月新宮に赴く。常典は当初江戸での工作に従ったが、忠央に命じられて10月に新宮に着き伺候。文久3年7月7日没。「掌中源氏物語系図」「百人一首女訓抄」「千木の片そぎ」「日本紀註疏」など多くを著わす。(『新宮市誌』)
山本市太夫 やまもと いちだゆう 生没年未詳 近世前期の古座浦庄屋
承応4年(1655)3月年寄5と樫野浦(現串本町)からの訴えに答えて漁場定を差し出す。5月から9月まで、両浦が漁をできる日数等が決められていた。のち両浦はたびたび争うが、この定書は争論のたびに引き合いに出される。(「近世史料」5)
由比正吉 ゆい まさよし ?〜1622 近世前期の家臣
甚太郎 祖父親定以来今川家に仕える。甚太郎は駿河生まれ。永禄年中に今川家が没落した後、北条家に仕え、のち暫くは浪人したという。やがて家康の近習として召し出され知行300石下される。その後、大番入りを仰せつけられ、水野重仲のもとで駿府および伏見の城番を勤める。慶長12年(1607)重仲が頼宣に付けられて水戸へ赴く際に、甚太郎も重仲の与力として同行する。元和5年(1619)頼宣の紀州入国に際しては与力として新宮に入り、以後代々同所に居住する。元和8年4月15日没。(『南紀徳川史』6)
吉田庄太夫 よしだ しょうだゆう 1803〜1858 幕末の家臣
諱正礼・善之助 勘定奉行支配小普請吉田正武の長男として和歌山に生まれる。文政13年(1830)正月評定所書役見習。天保3年(1832)正月勝手書役。13年6月勘定組頭方勤め。嘉永6年(1853)江戸詰勘定組頭。安政2年(1855)4月牟婁郡北山組・入鹿組・木本組・本宮組27ヵ村に村替騒動が起ったため百姓の思いを理解しようと賛成派の者を江戸へ呼び寄せ査問。4年閏5月牟婁郡木本浦(現熊野市)に来て百姓と会い嘆願書にも目を通し、12日村替中止の願を引き請けることを申し渡す。7月には村替中止が達せられたが庄太夫は安政5年8月29日に引責して自刃したと伝えられる。(『熊野市史』、田中敬忠『義人吉田庄太夫小伝』)
李梅渓 り ばいけい 1617〜1682 近世前期の朱子学派藩儒学者
衡正・玄蕃・釣岩叟・潜窩・江西・五松軒・隴西逸民・聶松軒・送雲軒・諱全直 李真栄惣領。紀州の生まれ。寛永11年(1634)家督相続し30石の儒者。藩儒学者永田善斎の門弟となり京都へも遊学。のち切米80石。世子光貞を学問指南。朝鮮通信使来航の際には応接する。万治3年(1660)の「父母状」触れ出しのきっかけになった親殺しの者を教え諭してもいる。同じころ家臣への講釈も行う。寛文12年(1672)「徳川創業記考異」を30年かかって完成させ、幕府に献上、知行300石に加増。葛城山麓の梅原村(現和歌山市)を与えられ、梅渓と号したという。新宮の「徐福の墓」の墓碑は、紀州藩祖徳川頼宣が李梅渓に書かせたと伝えられているが『熊野年譜』には「元文元年(1736)楠藪へ秦徐福の石塔立」あり、約100年のちである。天和2年10月22日没。著作に「一陽軒易説」・「潜窩雑記」・「大君言行録」・「梅渓文集」がある。(『南紀徳川史』1、6)
六左衛門 ろくざえもん 生没年未詳 近世前期の新宮廻船業組頭
正保4年(1647)11月廻船業者・船問屋・木材問屋・新宮町年寄と共に、寄合・材木売買等に関する定書に連印している。(「近世史料」2)
太地頼治 たいじ よりはる ?〜1699 江戸時代中期の太地浦土豪
太地角右衛門。
苧(カラムシ)製での網掛け突き取り捕鯨法の創始者で、角右衛門組太地鯨方頭首。
太地捕鯨創始者、和田忠兵衛頼元の孫。兄金右衛門頼興に代わり和田家を継ぐ。後に藩主徳川光貞より太地姓を与えられ改姓する。隠居後、惣右衛門。
新宮領太田組20ヶ村(当初は18ヶ村)大庄屋。元禄12年3月22日没。

(『太地浦鯨方文書』〈太地家蔵〉、『正徳3年文書』〈太地町立くじら博物館蔵〉、
『太地村捕鯨濫觴及沿革大略』〈太地家蔵〉)
和田頼元 わだ よりもと ?〜1614 江戸時代初期の熊野捕鯨開祖
忠兵衛・金右衛門 太地浦に蟄居した鎌倉時代の武将朝比奈義秀の末裔と伝えられる。和田家は秀吉の紀州征伐で所領地を失ったが、兄頼国は堀内氏善に仕え家来数十人を率いた水軍の将として朝鮮で戦死したという。頼元ははじめ浅野幸長に仕官。慶長11年(1606)致仕し堺の浪人伊右衛門と尾張師崎(現南知多町)の漁師伝次と共に突取法を始める。慶長19年3月17日没。

(『和田家系図』(和田家蔵)、『太地浦鯨方文書』〈太地家蔵〉、
『正徳3年文書』〈太地町立くじら博物館蔵〉)

『和歌山県史人物』(県史編纂委員会 1989年)をもとに作成