熊野市 十津川村 新宮市 那智勝浦町 太地町 古座川町 串本町 田辺市
楯ヶ崎 ヤマイバラ ミカドアゲハ |
「熊野の海金剛」 とも呼ばれる楯ケ崎は、熊野市二木島港湾の東端に位置する英虞崎の突端にある。 内に二木島湾を望み、外は熊野灘に面する壮大なスケールの柱状節理の大岩壁である。 周囲の海は、海中公園に指定され、テーブルサンゴやキクメイシなど約20種におよぶ造礁サンゴが見事な海中景観を形成しているという。 磯には海食崖の柱状節理からもたらされる巨礫が多く、魚貝類も豊富で、太公望で賑わう地でもある。 この大岩壁は、高さ約80m、周囲約550mにもおよぶ花崗斑岩の柱状節理からできている。 1400万年前の大規模な火山活動によって生じたもので、節理の直径は1〜2mにも達している。 崖下の海食台は、千畳敷万畳敷とも呼ばれ、巨大な花崗斑岩の塊で、亀甲模様が美しい。 楯ケ崎までは、国道311号線から約2km、徒歩40分の遊歩道が整備されている。 この間の景観の美しさもさることながら、周辺は国の特別保護区に指定され、人手の加わらない自然が残された地である。 遊歩道に沿って鬱蒼と茂る照葉樹林は南国熊野を象徴している。 アラカシ、クスノキ、カクレミノ、シロダモ、ヤブツバキ、クロガネモチ、スダジイなど常緑の広葉樹が余すところなく繁茂しており、ほぼ中間地点にあたる阿古師神社付近には、オガタマノキの巨木も多く、タブ、ウバメガシが林を形成する。 また、遊歩道を覆うヤマイバラやバクチノキの純林、キウイフルーツの原種といわれるシマサルナシも見られる。 熊野市内で唯一の自生種であるハマナタマメ、モロコシソウやリュウキュウマメガキ、キノクニシオギクやアゼトウナ、タイキンギクなどが四季折々の花や実をつける。 林床には、リュウビンタイが群生し、ハチジョウシダが自生する。実に豊かな植物相を見ることができる。 比較的狭い岬ではあるが、このような自然林に支えられて、そこにすみつく鳥類や昆虫類、その他の小動物も多い。 ジャコウアゲハ、アサギマダラ、イシガケチョウなどの蝶類、通常山地に産するスミナガシやアオバセセリ、分布上、北上を続けるサツマシジミなどが姿を見せる。 とりわけ各地で数少なくなったミカドアゲハがオガタマノキの巨木の梢を乱舞する様は他の地域では見られない。 オオキンカメムシが集団で越冬し、ヒメハルゼミの合唱も聞かれる。 三重県内で最初に発見されたタイリクアカネは、西側の分布限度を瀬戸内海沿岸から熊野灘まで広げ注目されている。 タゴガエルが鳴き、ブチサンショウウオがすみついているという。 人を寄せつけない断崖絶壁にとり囲まれた楯ガ崎周辺は、まだまだ未知なことが多い。 神武上陸の神話をはぐくみながら厳然として存在する楯ケ崎とその周辺は、まさに生物の宝庫である。 |
布引の滝 ミルンヤンマ キリシマミドリシジミとルーミスシジミ |
一族山は紀和町の中央部に位置する。熊野酸性火成岩類からなるこの山は、標高801m、岩峰・岩壁の発達した山である。この一族山の南斜面、楊枝川の上流に高さ29mの美しい滝がある。 この滝を 「布引の滝」 という。日本の滝百選にも選ばれた、優雅で気品のある滝である。 峻険な山並みと緑濃い暖帯照葉樹林を背景に三段にわたって流れ落ちる様は、実に見事である。 景観の素晴らしさもさることながら、この周辺は、自然そのものの残された貴重なところである。 紀和町板屋から大河内を経て三浦に至る林道沿いには、10km余にわたってヒメボタルが明滅の帯をつくり、三浦から上流はゲンジボタルを多産する。 「田んぼの一枚はイノシシのためにあけているし、柿の木の一本はサル(ニホンザル)のためにおいてあるんや。」、大河内の古老は屈託なく笑いながら言う。 ここは幻のヘビ 「ツチノコ」 伝説の残る里でもある。 事実、滝にむかう自然林でニホンザルによく出会う。 滝壷の下流の谷ではイノシシの足跡がいくつも見られるし、ニホンジカの糞とも出くわす。 キツネ、タヌキ、ノウサギ等、哺乳類も多い。 稀少種であるワカヤマヤチネズミもこの周辺では数多くみられる。 昆虫類も豊富で、特に蝶類では貴重な種を含めて種類数も多い。 蝶に関心を寄せる人なら誰もが一度は見たいと願うゼフィルス類もキリシマミドリシジミ、ヒサマツミドリシジミ、メスアカミドリシジミなど珍しい貴重な種が勢揃いする。 現在、三重県のルーミスシジミの確実な生息地として確認されている数少ない地の一つでもある。 滝周辺森林は、アラカシ、アカガシをはじめとするカシ類をはじめ、シイノキ、ヤブツバキ、クスノキ、トチノキ、各種カエデ類などの落葉樹が混生する天然林となっている。 この森林や沢沿いには鳥類も多い。ワシタカ科のハチクマ、サシバをはじめ、アオゲラ、コゲラ、ルリビタキ、キビタキ、アカハラ、ミソサザイ、オオルリ等々・・・、珍しい鳥キバシリも確認されている。渓流には、アマゴやオオダイガハラサンショウウオが棲みつく。 布引の滝周辺は、実に豊かな生物相を形成している。1991年6月、この天然林は、20.1haにわたって 「紀和町切らずの森」 として残されることになった。現存する天然林や原生林を、周囲の地形や風景をもひっくるめ残しておくという紀和町の英断に心より拍手を送りたい。 |
玉置山の紅葉 深山にすむヒメオオクワガタ ブナ立ち枯れに群生するツキヨタケ(毒) |
玉置山(1076.4m)は、大峰山脈の最南端にあり、大峰修験道の出発点としても名高い。 頂上直下には玉置神社が安置され、地元の人々の信仰も厚い。 神域は古くから伐採を禁じられていた為、樹齢3000年といわれる神代杉をはじめとした巨杉群が残されており、鬱蒼とした林観は見事である。 この巨杉群は昭和33年に天然記念物に指定されている。 山頂は、シバやススキの草原で、シャクナゲが植えられている。南に熊野灘、北に大峰山脈を眺むことができ、沖見岳の別名がある。 山頂近くの南面は風雪が強く、アカマツを交え灌木林状になっており、他はモミ、ツガを主とした林とブナ・ミズナラを主とした林が入り交じる。 特に山頂の北側に広がるブナ林は、樹齢100〜150年の巨木群にヤドリギが群生しており見事である。 紀南の数少ないブナ林として、果無山系のものと共に貴重である。 また、神社から下の南斜面は、ブナ・ミズナラ、少し下部にはモミ・ツガ・トガサワラ・カエデ類・シデ類などの見事な天然林が残されている。 動物も豊富で、シカ・リス・ニホンザルなどのほ乳類や声のブッポウソウで知られるコノハズク・アオゲラ・ヤマガラなど鳥の種類も多く、昆虫類では、花上にヒメハナカミキリ、コガネムシ類が多く集まり、初夏にはエゾハルゼミの「ミョーキン・ミョーキン・ケケケケケ」 とユーモラスな合唱も聞かれる。 朽ち木や倒木にはオニクワガタ・ヒメオオクワガタ・ルリクワガタ・オオキノコムシなど深山性の種が多い。 陸貝も多く、大型のギューリッキマイマイやコハゲギセル、ブナの樹幹にはマルクチコギセルやホソヒメギセルが見つかっている。 秋は、朽ち木や林床に、ツキヨタケ・クリフウセンタケ・ヒメベニテングタケ・クリタケなどキノコ類も多い。 玉置山は日本の自然百選に入っており、奈良県の自然環境保全地域の指定も受けている。 十津川村では、玉置山を近くの森林公園とあわせて、積極的な保護を進めようとしている。 登山道も整備され、神社までは駐車場から徒歩15分と大変便利になった。 今後は、参拝者やハイカーのマナーをも考えた保護対策が必要と思われる。 |
オオミズゴケ テツホシダ ヤマドリゼンマイ |
国の天然記念物 「藺澤浮島植物群落」 は、新宮市の市街地のほぼ中央部にある。
かつて新宮市街地が、縄文時代中後期から弥生時代にかけて、潟湖と呼ばれる湖のような状態であったころ、周囲の山地や段丘から浸食による堆積物が流れこみ、陸地化していく中で、低い場所にとり残された名残りの沼地が、浮島の周りをとりまく沼で、沼は地下からの湧き水によって現在まで維持されてきている。 浮島の島のでき方については、過去にいろいろの推測がなされてきたが、新宮市が森の再生保存のために昭和63年に発足させた、「新宮藺澤浮島植物群落調査委員会」 の調査研究により、現在では次のように考えられている。 当初沼の岸辺や浅い場所に生えていたアシなどの草の類が、冬枯れしては沼の浅い場所に遺体を積らせ、湧き水が比較的低温であったため分解がおそく、完全に分解されないまま、次の年のものが上に重なっていく、これを長年にわたって繰り返すうちに、植物遺体の半分解物の泥炭でできたスポンジ状のマットが、比重の違いから水面に浮くようになり、これが島のもととなった。 初めのうちは草の生えた浮島であったが、やがて周りの山から、鳥や風などによって樹木の種子が運ばれ森が造られていったというのである。 調査委員会では泥炭層の厚みから計算して、浮島ができたのは中世(12〜16世紀)、森が成立したのは近世の初めごろ(16〜18世紀)であろうして、一般に考えられているより年代の新しいものであると結論づけている。 浮島の森が国の天然記念物に指定されたのは昭和2年で、指定のための調査をおこなった植物学者の牧野富太郎博士や三好學博士らが、島内に北方の植物のヤマドリゼンマイやオオミズゴケと、亜熱帯植物のテツホシダが混生して繁殖することに注目し、他に類を見ないこの島の森の生態系を、長く保存し保護していくことの必要性を強調されてのことであった。 その後浮島は、戦争や地震・食糧難、さらに経済復興のなかでの住宅や道路開発と、社会情勢の変転の中で、荒れるにまかせた状態になっていたが、ようやく昭和30年代の中ごろから、沼や島の森の荒廃のひどさが問題視されるようになり、管理者の新宮市も沼の浚渫や清掃をおこなって対策を講じ、昭和49年から3ヶ年をかけて、浚渫と鋼矢板による護岸の工事を施した。 さらに昭和63年から、抜本的な島の生態系の再生と保全をはかるため、前に触れた 「調査委員会」 による研究調査と、沼の水の浄化に井戸水を補給するなどの工事を実施してきて現在に至っている。 その効果は徐々に表れ、ミズゴケの繁殖範囲の拡大や、スギの樹勢の回復などに見られるようになってきている。 |
鼻白の滝 西日本では少ないハコネサンショウウオ 生きた化石ムカシトンボ |
新宮市から、国道168号線を15分程北西に車で走ると、「はなじろ茶屋」 と記された看板と食堂が目につく。 この食堂を左折し、せまい舗装林道を2〜3分進むと橋にたどり着く。 この橋に車を止めて右を見ると、上下二段の見事な鼻白の滝が眼前に迫る。 この滝を含め田長谷渓谷には、熊野酸性火成岩がつくる絶壁、大小の滝が多く、林道が尾根まで伸びてしまった今日、なお渓谷美を残している。 渓谷美の見事さもさることながら、谷の南西斜面(白見山の北西斜面)の天然林は見応えがある。 標高わずか数百メートルの所に、モミ・ツガ巨樹・ウラジロガシ・アカガシを交えた鬱蒼とした森が大きく広がる。 林内には、ホンシャクナゲの群生も見られる。 昭和51年の県の調査では、分布状興味深い植物として、ドロニガナ・トガサワラ・ウメモドキ・アギスミレ・シコクスミレ・ハナビゼリ・キナンカンアオイ・タカクマヒコオコシなどがあげられている。 植物の豊富さ、地形の複雑さ、気象条件に恵まれ、動物群もまた豊富である。 渓流には、アマゴ・タカハヤが多く、ブチサンショウウオやオオダイガハラサンショウウオもみられる。 1994年には、東日本に多く、県下では初記録のハコネサンショウウオも見つかっている。 森では、オオルリやミソサザイ・ウグイス・メジロなど野鳥の美しい声も聞ける。 ヤマネ・ニホンカモシカ・ニホンザルなども多く、ニホンザルは頻繁に姿を見せる。 陸貝も多く、南紀特産のナチマイマイ・シゲオマイマイ・アナナシマイマイ・ツヤマイマイ・シロバリギセルをはじめ、 カギヒダギセル・オオギセル・ウスベニギセル・コハゲギセル・キイツムガタギセルなど多くのものが見つかっている。 昆虫類でも、キイホソヒラタゴミムシ・ナンキコブヤハズカミキリなどの特産種、ツガの巨木の洞からは、希少種オオチャイロハナムグリ、渓流には生きた化石、ムカシトンボが見られる。 全体的には南方系、北方系の種の入り交じった複雑な相をつくっている。 水源となる白見山から大雲取山への稜線には、わずかながらブナの自生や、紀伊半島、四国の山岳で美しい花を咲かせるアケボノツツジも確認されている。 鼻白の滝を含めたこの地域は、南紀の動植物分布の特異さ、複雑さを知る上で欠かせない大切な地域である。 この貴重な自然林はすべて民有林となっているが、多くの人の知恵を借りて是非後世に残したいものである。 |
那智原生林 ナチシダ コマイマイマブリ |
落差が133m、日本一の高さを誇る那智山一の滝(通称“那智の滝”)の、東側に見られる那智原生林は、烏帽子山系に源をもつ本谷と東の谷にはさまれた、滝尾根と呼ばれる548mのピークの南斜面に展開し、面積30ha余りで、ほぼ方形をなしている。
原生林の基盤岩は、熊野酸性火成岩でできている。
地表は転石の岩塊とその風化物、さらに上を覆っている腐植で山肌を形成し、保水性と有機栄養に富んでいる。 古くから熊野権現那智大社の神域として保護されてきた暖帯照葉樹の原生林で、おそらく、規模の大きさの点でも、原生林としての内容の点でも、西南日本で指折りのものであろう。 森林は、高木層をクスノキ・タブノキ・イチイガシ・シイノキ・ホルトノキ・イスノキ・イヌマキ等が構成し、亞高木層はタイミンタチバナ・ミミズバイ・カンザブロウノキ・バリバリノキ・リンボク・サカキ・ネズミモチ・クロバイなどの樹種によって占められ、林内には、この地方で珍しいツゲモチのかなりの樹齢のものも見られる。 林床の草本層は上層の樹木の枝張りがこみあっていて、光の透過率が低いためあまり発達せず、高木・亞高木の樹の幼木やイズセンリョウ・ヤブコウジ・ツルコウジ・アリドオシ・センリョウ・ホソバカナワラビ・コバノカナワラビ等が散生している。 森を全体的にみれば典型的な常緑広葉樹の極相林である。 さらに、森林の周辺にはシロヤマシダ・コクモウクジャク・カツモウイノデ・ヤワラハチジョウシダ・ナチシダ・リュウビンタイなどの暖帯から亞熱帯要素のシダ植物が豊富に繁茂し、ウドカズラ・ヒロハコンロンカ・ルリミノキ・カギカズラといった南方系の低木や蔓植物とともに外套群落を形成している。 この原生林の本格的な生物調査は明治に入ってからで、中央の大学の専門学者による研究調査が回数多くおこなわれ、次第に植物相や動物相の全貌が明らかにされてきた。 植物名にナチシダや動物名にナチマイマイなど、生物の標準和名の頭にナチの語を冠するものが幾種類かあるが、何れもこの原生林内か周辺で最初に発見され命名されたものである。 その後1927年、当時の文部省嘱託で国の史蹟名勝天然記念物調査会の委員であった白井光太郎博士が来訪し、この時の調査による報告書がもとになり、1928年3月“那智原始林”の名称で国の天然記念物に指定された。 1960年以降の経済成長の中で、各地で天然記念物や国立公園の荒廃が問題化している昨今、“那智原始林”が、天然記念物に指定された当時と、あまり変わらない姿を伝えていることは喜ばしい限りである。 これからもこの貴重な自然の文化財の森を、価値が損なわれないように大切に護っていきたいと思う。 |
芝生広場からの梶取崎灯台とビャクシン リュウビンタイ 燈明崎へ続く魚付保安林 |
熊野灘に突き出た太地町の一角を形成する燈明崎は、古くは遣唐副使の吉備真備が暴風に遭い漂着した地であり、また、古式捕鯨時代には山見(鯨の見張所)が設けられ、我が国で初めて鯨油を用いた行灯式灯台が置かれた岬でもある。 太地港の入り口付近から燈明崎先端までの隆起海食台の外沿部は、約1kmにわたって海岸天然林が細長く続き、この森林は魚付保安林として手厚く保護されてきた。海岸より約40mの高度差を持つ天然林の大部分はスダジイによって占められているが、その他の高木層としてはタイミンタチバナ、ヤマモモ、モチノキ等が見られ、林縁近くには樹高約15mにも及ぶハマセンダンの壮大な樹冠が見られる。 この森林帯のほぼ中央部に位置する谷筋には大型シダ類のリュウビンタイの群落があり、ここは貴重な自生地である。 低木層ではトベラが多く、ハマヒサカキ、シロダモ、タブノキ、ネズミモチ、イヌマキ、ヒメユズリハ、マルバシャリンバイ等が見られ、また、ノシランの群落も自生するこの海岸天然林は植物分類地理学上、注目される森林帯である。 燈明崎から梶取崎への約1.6kmはスダジイやウバメガシを主とする緑のトンネルの整備された歩道が続いている。 梶取崎は、紀伊半島南部に黒潮が接岸している時には、淡い沿岸水の向こうに茄子紺色に染まった黒潮主軸が見える岬でもある。 明治32年に設置された灯台と共にメルヘンの世界へ誘う景観を作っているのが2株のビャクシン(イブキ)の巨木である。 樹高約10m、幹周2.7m、2.55m(地上1mの高さ)、樹齢約350年と推定され町の天然記念物に指定されている。 また、四季を通じて沢山の鳥たちが見られ、春秋にキアシシギ、春から秋にかけてオオミズナギドリも訪れている。 この梶取崎北側の神ノ浦海岸は主に転石海岸であるが、その地形から漂着物がよく寄る浜で、1975年11月にはオウムガイの殻が1個体採集されており、熊野自然保護連絡協議会が行う 『漂着物ウォッチング』 の場ともなっている。 そして異常気象といわれた1984年の春、岸近くを南から北へ延々と渡って行くハシボソミズナギドリが何日も観察され、連日その死体が漂着したこともある。 燈明崎から梶取崎に続く海岸線は奇礁に富み、妙法山、烏帽子山等の那智連山を背景としたパノラマは熊野を代表する景観として、昭和11年2月に吉野熊野国立公園の指定を受けた。 しかし近年、この景観を無視した強引な乱開発が目に余る。 『海を渡って来る鳥、魚は恙なき処を求めて寄って集まるものなれば、海べりの岩も、島も、岩礁も、木草も、大事に守り損せらまじき事』 とし、魚籃の地として繁栄を導いた太地鯨方一族の家訓も、今は昔の物語りである。 |
一枚岩 虫喰い状の小洞窟 酸性火砕岩の景観 |
古座川の一枚岩が、日本テレビ系列の全国ネットに登場した。
みのもんたキャスターの 『おもいっきりテレビ』 の中の 「きょうは何の日」 のコーナー。
1996(平成8)年12月13日(金)のことだった。 12月13日は、「古座川ノ一枚岩」 が国の天然記念物に指定された日で、1941(昭和16)年のこと。 これで、現在は 250件ある国の天然記念物のひとつになった。 指定の根拠は、巨大な断崖・岩壁が古座川の流れとあいまってかたちづくる水景の、名勝としての価値にあることはいうまでもないであろう。 古座川は、「新日本百景」(1927年、昭和2年)に選定されている。 古座川の一枚岩が、世に知られるようになったのは、1725(享保10)年に薬草の調査をしていた紀州藩の家来の目にとまり、世に広められたところからと伝えられている。 その後、山水画に描かれるなどして多くの人々に知られる名所となり、『紀伊國名所圖會』 でも取り上げられたことなどから、文人・墨客の好んで訪れるところともなっている。 絶壁・岩壁は、高さ(比高)100m、幅500mで、表面は起伏が少なく平面上である。 このような特徴的な景観が形成されるにいたった条件について、考えてみよう。 まず、風化・侵食作用を受けると、平らな一枚岩状の岩肌をつくる性質の岩石の存在。 この岩石は、熊野酸性火成岩類(1400万年前)の酸性火砕岩で、紀伊半島南部のあちこちで同様の一枚岩状の岩肌をみせている。 この岩石は、風化・侵食の条件によっては、虫喰い状の小洞窟を形成することがあり、その場合には虫喰岩(古座川町、国の天然記念物)とよばれる。 一枚岩状や虫喰岩状の岩石が分布するところは、この酸性火砕岩の分布するところである。 次に、この岩石を侵食した古座川の流れ。 この地点では古座川は直線的に流れており、そのために流れに沿って幅の広い一枚岩が形成されたものである。 かりに、古座川が直線的に流れていなかったり、この岩石の分布するところを横切っていたりしたら、このような幅の広い一枚岩は形成されなかったであろう。 そして、地盤の隆起。 つまり、海水面に対して、陸地が相対的に隆起を続けたこと。 これによって古座川は急流となって下方への侵食を続け、その結果として高い絶壁が形成されたものである。 かりに、地盤の隆起量が小さければ、河川は側方への侵食力をますことになり、そうすれば幅の広い谷と低い崖が形成され、水景は大きく異なったものとなっていたであろう。 つまり、特異な岩石の存在、古座川の直線状の流れ、そして地盤の継続した隆起という3条件がそろったことによって、形成されたものといえる。 なお、この酸性火砕岩は巨大な岩脈を形成しており、南紀の温泉と関係が深い。 |
岩を覆いつくすテーブルサンゴの群落 熱帯性魚類の代表 ナンヨウハギ 串本海中公園センターの海中展望塔 |
日本に海中公園制度ができてすぐの、1970年7月1日に、日本最初の指定を受けた8ケ所の海中公園の一つが串本海中公園で、吉野熊野国立公園の一部をなす。
串本海中公園には海中に4地区(面積約40ha)が指定されていて、この海中公園を紹介する施設として串本海中公園センターが設けられている。 このセンターのある海岸は錆浦(さびうら)と呼ばれているが、その名の由来はサンゴにある。 南紀の南端部一帯に最も多量に棲息しているイシサンゴはいわゆるテーブルサンゴと呼ばれているクシハダミドリイシという種である。 これが海中で生きている時の色はくすんだこげ茶色で、鉄がさびたような色合いに見える。 従って土地の人々はこのサンゴのことを“サビ”と呼んでいる。 この“サビ”は戦前までは採取され、火で焼かれた後、石灰の粉にして、シックイの原料にされていた。 錆浦とはこのサンゴの多い入江という意味で、ここには昔からサンゴが多く見られたことを地名が示している。 この海域では海中の岩はほとんどテーブルサンゴで覆いつくされ、非常にすばらしい、まるで熱帯のサンゴ礁のような海中景観を呈する。 またテーブルサンゴの間には緑・赤・橙色の約100種のイシサンゴ類をはじめ、赤・黄・紫などのヤギ類・ウミトサカ類の各種サンゴが見られる。 さらにそれらのサンゴの周辺にはチョウチョウウオ類・スズメダイ類・ベラ類などの多くのカラフルな熱帯性魚類が泳いでいる。 それに加えて、ヒトデ類・ウミシダ類・タカラガイ類といった熱帯性の生物が豊富に見られる。 串本海中公園にはこのように非常に多くの生物が棲息しているのであるが、それらの半分以上の種は、遠く紅海やグレートバリアーリーフなどの典型的な熱帯サンゴ礁に見られるものと同種である。 この熱帯色を強く示す海中の様子は岸近くを流れる黒潮の影響を強く受けているためで、この様な高緯度(北緯33°30′)地域でのこの様な熱帯性生態系の成立は世界中でここにしかなく、学術的にも貴重な地域である。 幸い付近に大河や汚染源となる人口密集地・工場等がないため、現在は健全な状態を保っているが、後世までこの状態を護っていきたいものである。 |
下才谷(しもしゃや)湿田遠景 ヒメシロアサザ(ミツガシワ科) マルタンヤンマ(上)(ヤンマ科) チョウトンボ(中・下)(トンボ科) |
湿地は水域と陸域の自然環境が混在することから、両方の生態系に依存する多種多様な生物相を構成している。
しかし、水辺の自然環境は相次ぐ埋め立てや水質汚染などにより破壊され急速に変貌し、水草や水生の小動物は激減の一途をたどっている。 古座町田原には堂道周辺、下才谷湿田、岩屋湿田の3つの湿地がある。 ここで見られる植物のうちマルバノサワトウガラシ、シソクサ、スズメノハコベ、ミズネコノオ、ヒメシロアサザ、ヒメビシ、ホシクサ、クロホシクサ、ゴマシオホシクサ、シログワイ、スブタ、ヒメミクリ、ヤマトミクリ、コガマ、ミズワラビの15種は 「近畿地方の保護上重要な植物」にリストアップされている希少種である。 堂道周辺の水路は水量がいつも豊富で、ヤマトミクリ、キクモの流水形やホソバミズヒキモが繁茂し、その上をハグロトンボやイトトンボの仲間が飛び交っている。 水路脇の田んぼにはミズネコノオやホシクサの仲間をはじめとして多くの湿生植物が見られる。 その中でもマルバノサワトウガラシはもともと近畿の他府県にも分布していたが、現在ではこの堂道周辺でしか確認できないといわれている。 そのマルバノサワトウガラシやイヌタヌキモ、スブタが多く見られる水域には、植物の他にも水中にコオイムシ、タイコウチ、ミズカマキリ、マツモムシ、ハイイロゲンゴロウ、コシマゲンゴロウなどが愛きょうのある姿を見せている。 その水上ではモートンイトトンボが水草の間を飛び交い、コサナエも姿をあらわす。 ヒメビシが多い池のあたりにはチョウトンボやキトンボが集まり、夕暮れになるとマルタンヤンマが勢い良く飛んでいる。 さらに重要な植物としてヒメシロアサザがあり、全国的にも分布が限られている絶滅危惧種である。 この堂道の湿地でもごく一角に細々と生育しているが、1994年と1995年の2年続きの渇水の間にヤマトミクリやスゲの仲間が大繁殖し水域を急激に狭めており、早急に何らかの対策を講じなければならない。 下才谷湿田はかなり大きな休耕田の集団で周辺一帯の田んぼや湿田にはミズワラビ、シソクサ、ミズネコノオ、ホシクサの仲間などが繁茂している。 さらに、夏にはヒメミクリの白い花がいたるところで見られる。 これだけ大きなヒメミクリの群落は特筆すべきものがあると思う。 また、ミズオオバコやスブタやヒメビシの多い水域、ハスの群落などがあり、その周辺にオオヤマトンボ、コヤマトンボ、タカネトンボなどがよく姿をあらわす。 岩屋湿田はその昔、水鳥がたくさんみられる大きな湿地だったそうだが、残念なことに現在はそのほとんどが埋め立てられ、周辺部にヒメミクリとマコモの大きな集団が残っているだけとなった。 しかし、下才谷や堂道周辺では、絶滅危惧種をはじめとして多種多様な動植物が、いつまでもその営みを続けられるように保護したいものである。 |
公園化された「ふけ田」 北方系のヨツボシトンボ 湿地の主役 ゲンゴロウ |
本宮と田辺を結ぶ国道311号線沿い、湯の峰温泉から車で10分足らずの所に 『皆地ふけ田』 がある。 5800uばかりの細長い湿地で、かっては水田として利用していたが、休耕田となった。 皆地小学校で勤めていた熊自連会員湊氏の数年にわたる詳しい調査で、この湿地の価値が次第に明らかにされ熊自連でも保護活動に乗り出した。 観察会、調査報告、保存のための意見具申などを繰り返すうち、1989年、本宮町当局が皆地ふけ田を自然公園として保護することを決めた。 その後、野生生物研究所の設計で、環境庁の補助事業による公園整備が進み、平成7年7月、整備事業完成オープニング式典が盛大に行われた。 『皆地ふけ田』 の特徴をあげると、まずトンボの種類の多さがあげられる。 県下では分布の限られているコサナエ、ヨツボシトンボ、ハッチョウトンボ、モートンイトトンボなど40種近くのトンボが記録されている。 湿地にすむ昆虫はトンボ以外でも豊富で、各地で絶滅が心配されるタガメ、ゲンゴロウを含め多くの湿地に住む昆虫が記録されている。 ここにすむオオコオイムシは県下で 『皆地ふけ田』 だけに見られる。 この昆虫は、雄の背中に雌が卵を産みつけ、その後雄は卵が孵化するまで守り続ける。 他にも、タイコウチ、ミズカマキリ、マツモムシなど、湿地の主役が勢ぞろいする。 もちろん、フナやメダカ、ドジョウなどのなじみの魚も健在である。 ふけ田の整備計画が進む以前には、いくつかの危機があった。 それは、埋め立て計画があり、陸化の進行であった。 幸い埋め立ては、町の英断でまぬがれ、陸化の進行は地元住民の手作業で改善されてきた。 平成7年整備事業が完成し、自然公園の第1歩が踏み出されたが、問題も抱えている。 公園整備工事に当たって、性急な工事で、既存の生物相に打撃を与えたことがあげられる。 熊自連では、中央の水路は手をつけないよう要望していたが、実際には大幅改造されたり、残しておきたい所が掘り返されたりしたため、工事完成後、湿地性の動物が減少した。 しかし、今後の自然とマッチした管理で、以前の湿地動植物が徐々に回復し、人里の自然の見本としての役割を果たしてくれると願っている。 人里の人と自然の付き合い方を教えてくれる21世紀の自然教育の本拠地としたい。 |