ヤタガラス 研究資料

熊野の文学

古典文学

万葉集(柿本人麻呂など)勅撰和歌集(新古今和歌集など)西行(山家集)、また連歌・俳諧など多くの歌人・俳人が熊野について和歌や俳諧などの作品を残していますが、今回は省略しています。
また日記(定家など)など熊野御幸の記録も多くありますが、歴史資料については今回は文学中心ということで触れませんでした。
できるだけ多くの文学作品を網羅したつもりですが、集録できなかった作品もあるだろうと思います。
未集録の熊野に関する文学作品がありましたら御一報ください。


このページの目次
日本書紀 新宮市、『新宮市史 史料編上』 1983(昭和58)年03月01日発行
古事記 新宮市、『新宮市史 史料編上』 1983(昭和58)年03月01日発行
日本霊異記 岩波書店、新日本古典文学大系 1996(平成08)年12月20日発行
三宝絵 下 岩波書店、新日本古典文学大系 1997(平成09)年09月22日発行
いほぬし 新宮市、『新宮市史 史料編上』 1983(昭和58)年03月01日発行
今昔物語集 第三巻 岩波書店、日本古典文学大系 1972(昭和47)年01月20日発行
梁塵秘抄 新宮市、『新宮市史 史料編上』 1983(昭和58)年03月01日発行
保元物語 新宮市、『新宮市史 史料編上』 1983(昭和58)年03月01日発行
古今著聞集 上 新潮日本古典集成 1983(昭和58)年06月10日発行
沙石集 岩波書店、新日本古典文学大系 1988(昭和63)年06月10日発行
平家物語 新宮市、『新宮市史 史料編上』 1983(昭和58)年03月01日発行
源平盛衰記 上 有朋堂文庫 1929(昭和04)年06月13日発行
源平盛衰記 下 有朋堂文庫 1929(昭和04)年07月13日発行
太平記 新宮市、『新宮市史 史料編上』 1983(昭和58)年03月01日発行
義経記 岩波書店、日本古典文学大系 1959(昭和34)年05月06日発行
道成寺 岩波書店、日本古典文学大系『謡曲集下』 1988(昭和63)年05月13日発行
をぐり 岩波書店、新日本古典文学大系『古浄瑠璃 説教集』 1999(平成11)年12月15日発行
狂言記 岩波書店、新日本古典文学大系 1996(平成08)年11月20日発行
御伽草子 岩波書店、日本古典文学大系 1959(昭和34)年05月06日発行
醒睡笑 上 岩波文庫 1986(昭和61)年07月16日発行
仁勢物語 下 岩波書店、日本古典文学大系『仮名草子集』 1975(昭和50)年04月10日発行
伽婢子 岩波書店、新日本古典文学大系 2001(平成13)年09月20日発行
北条九代記 有朋堂文庫 1929(昭和04)年04月13日発行
好色一代男 岩波書店、日本古典文学大系『西鶴集上』 1957(昭和32)年11月05日発行
好色一代女 岩波書店、日本古典文学大系『西鶴集上』 1957(昭和32)年11月05日発行
日本永代蔵 岩波書店、日本古典文学大系『西鶴集下』 1960(昭和35)年08月05日発行
主馬判官盛久 第四 岩波書店、『近松全集』第一巻 1985(昭和60)年11月20日発行
軽口御前男 岩波書店、日本古典文学大系『江戸笑話集』 1975(昭和50)年07月30日発行
けいせい反魂香 中 岩波書店、『近松全集』第五巻 1986(昭和61)年07月18日発行
三十三間堂平太郎縁起 祇園女御九重錦 国書刊行会、『叢書江戸文庫 豊竹座浄瑠璃集三』 1995(平成07)年06月25日発行
雨月物語 岩波書店、日本古典文学大系『上田秋成集』 1959(昭和34)年07月06日発行
聞上手 岩波書店、日本古典文学大系『江戸笑話集』 1975(昭和50)年07月30日発行

『日本書紀』

 (『新宮市史 史料編上』、新宮市、1983(昭和58)年03月01日発行)

『日本書紀』は日本の国がどう形作られたかを公的に記した最古の歴史書であるが、ここでは熊野関係だけを抜粋して概略を掲載する。

巻一「神代上 四神出生」

火の神を出生するとき亡くなったイザナギノミコトを有馬村に葬って、花の時は花をもって、また鼓や笛や幡を用い、歌舞をして祭る、という。

巻一「神代上 速玉神出生」

速玉大社の祭神、速玉男命の出生譚。

巻一「神代上 素戔嗚尊」

少彦名命が熊野岬から常世の国へ行った。

巻三「神武天皇」

神倉山 狭野を越えて熊野村へきた神武天皇は天磐盾にのぼった。さらに進もうとしたら暴風に遭遇、人柱で海を鎮め、熊野の荒坂津(またの名を丹敷浦)に着き、丹敷戸畔を討ったが神が毒気を吐くと人は倒れ立てなくなった。そのとき熊野の高倉下が、天照大神が天から剣を授けられる夢を見た。目が覚めると剣がある。その剣をもって行くと、神武天皇をはじめ倒れた人がみな立ち上がった。そして天照大神が遣わしたヤタガラスの導きにより、険しい山々を越えて行った。

巻十一「仁徳天皇」

皇后が熊野岬へ御綱葉(みつながしわ)を採りに行った間に、天皇が八田皇女を宮中に入れた。帰ってくる途中、皇后がそれを聞き、怒って御綱葉を海に投げ入れた。


『古事記』

 (『新宮市史 史料編上』、新宮市、1983(昭和58)年03月01日発行)

『古事記』は、『日本書紀』と並んで日本最古の歴史書である。神武天皇の条がもっとも有名で多くの碑が建立されているが、『日本書紀』の神武天皇の条と比較すれば内容に若干の違いがあるのがわかる。ここでは内容を一部紹介する。

中「神武天皇」

カレ神倭伊波礼毘古命(かみやまといはれびこのみこと)。ソコヨリメグリイデマシテ熊野村ニイデマセルトキニ。大キナル熊山ヨリイデ。スナワチ()セヌ。ココニ神倭伊波礼毘古命。ニハカニ遠延(をえ)マシ。マタ御(いくさ)ミナ遠延(をえ)テコヤシキ。コノトキ熊野ノ高倉下(たかくらじ)タチヲ持チテ天神御子(あまつかみのみこの)ノコヤセルトコロニイキテ(たてまつる)ルトキニ。天神御子スナハチサメマシテ。長イシツルカモトノリタマヒキ。カレ其ノタチヲ受ケトリタマフトキニ。其ノ熊野ノ山ノ荒ブル神自ズカラ皆切リタフサレテ。カノ地ニコヤセル御軍コトゴトニサメタリキ。(略)マタ高木大神命(たかぎのおおかみのみこと)ヲモチテ(さと)シマヲシタマハク。天神御子。ココヨリ奥ツカタニナ入リマシソ。荒ブル神イト多カリ。イマ天ヨリヤタガラスヲオコセム。カレ其ノヤタガラス導キテム。


『日本霊異記』

 (岩波書店、新日本古典文学大系、1996(平成08)年12月20日発行)

9世紀初めに成立した仏教説話集。熊野に関する説話も含まれており、『新宮市史 史料編上』『田辺市史』『和歌山県史』などで読むことができる。ここでは岩波書店の新日本古典文学大系本より紹介する。

「法花経を憶持てる者の舌曝れる髑髏の中に著きて朽ちざる縁 第一」

熊野村(新宮市付近)で教化に励んでいた永興禅師に、川の上流へ船を造りに行ったらどこからかお経が聞こえてきた、と告げる者がいた。そこで禅師が山中へ入っていくと屍の足に縄をくくり崖から身を投げて死んでいる人がいた。それは二年前に、伊勢の方へ修行に行くといって禅師のもとを去った法師で、その際、縄を二十尋もっていった人であった。三年たった。やはりお経が聞こえると山人から聞き、禅師が見にいくと、逆さまに縄でぶら下がったまま、髑髏の中の舌だけ腐らず、お経を誦んでいた。

生物(いきもの)の命を殺し怨を結びて狐と(いぬ)()りて互相(たがい)に怨を報ゆる縁 第二」

熊野村の永興禅師の話。前世で殺された人が狐となり人に憑依して殺してしまう。その後、死んだ人は犬となり、狐を食い殺す。その狐は前世で人に憑依した狐であった。

(みのり)の如く写し奉る法華経火に焼けぬ縁 第十」

牟婁の国の牟婁沙弥(榎本氏)の話。安締郡(有田郡あたり)に住んで商売をしていたが、仏教者と同じように身を清め法華経を書写した。ある日、家が火事になって丸焼けとなったが、書写したお経だけは焼けずに残った。


三宝絵(さんぼうえ) 下』

 (岩波書店、新日本古典文学大系、1997(平成09)年09月22日発行)

984(永観02)年成立。尊子内親王が出家して、信仰生活に入られたのを励ますために作成されたようだ。

「十一月 (二九)熊野八講会(はつかうゑ)

紀伊国牟婁(こほり)ニ神イマス。熊野両所(りょうしょ)證誠一所(しょうじやういっしょ)トナヅケタテマツレリ。両所ハ母ト娘ト也。結早玉(むすびはやたま)ト申。一所ハソヘル社也。此山ノ本神ト申。新宮、本宮ニミナ八講ヲオコナフ。紀伊国ハ南海ノキハ、熊野郷(くまののさと)ハ奥ノ(こほり)ノ村也。山カサナリ、河(おほく)シテ、ユクミチハルカナリ。春ユキ秋来テ、イタル人マレ也。山ノ麓ニヲルモノハ、コノミヲヒロイテ命ヲツグ。海ノホトリニスムモノハ、(うを)スナドリテツミヲムスブ。モシコノ(やしろ)イマセザリセバ、八講ヲモ行ハザラマシ。此八講ナカラマシカバ、三宝ヲモシラザラマシ。(略)


増基著 『いほぬし』

 (新宮市、『新宮市史 史料編上』、1983(昭和58)年03月01日発行)

11世紀中頃の成立。もっとも古い熊野への紀行文である。

(略)さて人のむろにいきたれば。ひのきを人のたくか。はしりはためくをとりて侍れば。むろのあるじ。この山はほだくひけんありて。はたはたとぞ申すといへば。たきごゑならむといひたちぬ。さてみふねじまといふ所にて。

そこのをに誰さほさしてみふね島神の泊りにことよさせけむ(略)


『今昔物語集』第三巻

 (岩波書店、日本古典文学大系、1972(昭和47)年01月20日発行)

12世紀中頃の成立。仏教説話集であるが、多様な人間の生きざまを活写している出色の説話が多い。

巻第十二「沙彌所持法花経不焼給語第廿九」

『日本霊異記』「(みのり)の如く写し奉る法華経火に焼けぬ縁 第十」と同じ内容。

巻第十二「僧死後舌残在山誦法花語第三十一」

『日本霊異記』「法花経を憶持てる者の舌曝れる髑髏の中に著きて朽ちざる縁 第一」の永興禅師の話と同じ内容。

巻第十三「修行僧義叡値大峰持仙語第一」

ある修行僧が熊野に参ったあと、大峰で道に迷い、山中に僧房を見つける。そこでは鬼人どもが集まり法華経を誦する聖人が住んでいた。

巻第十三「天王寺僧道公誦法花救道祖語第三十四」

天王寺の僧が熊野へ参ったあとの帰り、南部で道祖神と出会った。僧が法花経を唱えると道祖神は菩薩となって海の彼方へいった。

巻第十四「紀伊国道成寺僧寫法花救蛇語第三」

僧が熊野へ参るとき途中で女性に見初められ、帰りに寄ることを約束したが、寄らずに帰った。女性は蛇となって追いかけて、道成寺の鐘へ逃げ込んだ僧を焼き殺した。

巻第三十一「通大峯僧行酒泉郷語第十三」

ある僧が大峯を通る間に道に迷い、酒が湧き出ている泉のある集落に出る。そこで秘密を知られぬように殺されそうになったが、難を逃れ、麓の村に出てこの話をした。


後白河天皇編著 『梁塵秘抄』

 (新宮市、『新宮市史 史料編上』、1983(昭和58)年03月01日発行)

1185(文治01)年までに成立。当時、流行した今様を集成したもの。後白河天皇編の『梁塵秘抄』と同天皇著の『梁塵秘抄口伝集』がそれぞれ十巻づつ、全二十巻あったが現在、前者は巻一(断簡)・巻二のみ、後者も巻一(断簡)・巻十のみが現存。

「巻第二 熊野今様」

白道猷(はくだういう)(ふる)(むろ)王子晋(わうじしん)(もと)(あと)一々(いちいち)に巡りて見たまふに、昔の夢に異ならず

熊野へ参るには、紀路と伊勢路のどれ近し、どれ遠し、広大慈悲の道なれば、紀路も伊勢路も遠からず

熊野へ参るには、何か苦しき修行者よ、安松姫松五葉松(やすまつひめまつごえうまつ)、千里の浜

熊野へ参らむと思へども、徒歩(かち)より参れば道遠し、すぐれて山(きび)し、馬にて参れば苦行ならず、空より参らむ、羽()(にゃく)王子

熊野の権現は、名草(なぐさ)の浜にこそ降りたまへ、(わか)の浦にしましませば、年はゆけども若王子

(ひじり)の住所は何処(どこ)何処(どこ)ぞ、大峯葛城石(おおみねかつらぎいし)(つち)箕面(みのう)勝尾(かちう)よ、播磨(はりま)書写(そさ)の山、南は熊野の那智新宮

熊野の権現は、名草の浜にぞ降り給ふ、海人(あま)小舟(おぶね)に乗りたまひ、慈悲の袖をぞ垂れたまふ

紀の国や牟婁(むろ)(こほり)におはします、熊野両所は(むす)ぶ速玉

熊野出でて切目(きりめ)の山の(なぎ)()し、(よろづ)の人の上被(うはぎ)なりけり

「巻第十 口伝集」

新宮の社前で夜通し今様を歌っていると、熊野の神が現れたかのような不思議な出来事がおこった。


『保元物語』

 (新宮市、『新宮市史 史料編上』、1983(昭和58)年03月01日発行)

軍記物といわれるジャンルの初期の作品である。13世紀前半の成立。

「法皇熊野御参詣并びに御託宣の事」

鳥羽法皇が熊野へ参詣したところ板という巫女より「来年の秋に崩御される」という託宣があり法皇をはじめ供の人々すべてが涙ながらに京都へ帰った。

「法皇崩御の事」

翌年の夏ころから体調を崩し、昨年の冬の権現の託宣をうらめしく思った。


橘成季(たちばなのなりすえ)編 『古今著聞集(ここんちょもんしゅう) 上』

 (新潮日本古典集成、1983(昭和58)年06月10日発行)

1254(建長06)年に成立した説話集。

「徳大寺実能の熊野詣と随行の垢離棹(ごりさを)の事」

いつ比の事にか、徳大寺の大臣、熊野へ参り給ひけり。(中略)或る人夫一人頻りに歎き申しけるは、「たかき君の御徳によりて幸ひに熊野の御山をがみたてまつらんことを悦び思ひつるに、あまされまゐらせて帰り下らん事かなしきことなり。ただまげて召し具させ給へ」と奉公の人にいひければ(中略)諸人が垢離の水をひとりと汲みければ、「垢離棹(ごりさを)」と名付けて、人々もあはれみけり。さて、大臣参り着き給ひて、奉幣はてゝ、証誠殿の御前に通夜して、参詣のこと随喜のあまりに、大臣の身に藁沓はばきを着して、長途を歩みまゐりたる、ありがたきことなりと、心中に思はれて、ちとまどろまれたる夢に、御殿より高僧出給ひて仰せられけるは、「大臣の身にて、わら沓はばきして参り、ありがたきことに思はるること、この山のならひは、院、宮みなこの礼なり、あながちに独り思はるべきことかは。垢離棹(ごりさを)のみぞいとほしき」と仰せらるると見給ひてさめにけり。(略)

「盲人熊野社に祈請、夢に若王子託宣の歌を賜る事」

盲人が熊野社で三年勤めたがご利益がない。権現を恨んでいると、夢に「前世は日高川の魚であったが、南無大悲三所権現と道者が唱えた声を聞いた縁により、この世は人間に生まれ変わった。来世は、熊野社に勤めた縁により開眼する。みだりに神を恨むのではない」と託宣があった。一生の限り熊野社につとめようと決心して勤めていると、開眼したのであった。


無住道暁著 『沙石集』

 (岩波書店、新日本古典文学大系、1988(昭和63)年06月10日発行)

1283(弘安06)年に成立。古今東西の説話を例に引き、仏教の要旨や処世訓などを説く啓蒙書。

巻第一「和光ノ方便ニヨリテ妄念ヲ止事」

上総国高瀧(かずさのくにたかたき)トイフ所ノ地頭、熊野へ年詣(としもうで)シケリ。只一人アリケル娘ヲ、(イツキカシ)ヅキテ、(かつ)ハカレガ為トモ思ケレバ、相具(あいぐ)シテゾ詣ケル。此娘、ミメ(かたち)世ニ(スグレ)タリケルヲ、熊野ノ師ノ坊ニ、ナニガシノ阿闍梨(あじゃり)トカヤイフ若キ僧アリ。京の者也ケリ。此娘ヲ見テ、心ニカケテ、イカニモ忍ビ難ク覚ヘケル儘ニ、(略)アクガレ出テ、上総国ヘゾ下リケル。サテ鎌倉過テ、六浦(むつら)ト云フ所ニテ、便船ヲ待テ、上総ヘ越ントテ、濱ニウチ臥テ休ミケル程ニ、歩ミ(ツカレ)テ打マドロミタル夢ニ見ケルハ、(略)子ドモ両三人出キヌ。サル程ニ、此子十三トイフ年、元服ノ為ニ鎌倉ヘ上ル。(略)此子舟バタニ望テ、アヤマチニ海ヘ落入ヌ。(略)夢サメヌ。 サテ十三年ノ間ノ事ドモ、ツクヅクト思ヒツヅクルニ、只片時(へんし)ノ眠ノ間ダナリ。(タトヒ)本意(ほい)トゲテ楽栄(タノシミサカエ)アリトモ、暫ノ夢ナルベシ。(よろこび)アリトモ、又悲ビアルベシ。由ナシト思ヒテ、軈而(やがて)其ヨリ帰上(かへりのぼり)テ、熊野ニテ(オコナヒ)ケリ。和光(わくわう)御方便(ごはうべん)ニコソ有ケレ。(略)

巻第八「魂魄ノ振舞シタル事」

熊野別当のところいる背の小さい男に鬼神の魂が宿って、別当に仕えた。

拾遺六

熊野へ参詣する女房がいた。先達がこの女性に心を惹かれ、たびたび言い寄り、女はついに逃げられなくなった。侍女が覚悟して身代わりとなったが、先達はその夜「金になって」(死んで)しまった。


『平家物語』

 (新宮市、『新宮市史 史料編上』、1983(昭和58)年03月01日発行)

もっとも有名な軍記物で、13世紀末までに成立。文学的にも優れ、無常観をベースに格調高い文体と内容は、能や歌舞伎など後世に大きな影響をもたらした。

「巻第一 鱸」

平清盛が熊野へ参詣しようと伊勢より船できたときに鱸が船に飛び込んだのを見て吉兆と思った。

「巻第二 康頼祝言」

島流しとなった康頼らが島の似たところを熊野三所権現に見立てて、毎日熊野詣での真似をして帰洛のことを願った。

「巻第二 卒塔婆流」

康頼の夢に熊野の梛の葉が袂に入り、見れば虫食いの後が歌になっていた。

「巻第四 源氏揃」

十郎義盛(新宮十郎行家)が高倉の宮の令旨をもって各地に潜伏する源氏に平家打倒の使いをする。それを聞いた平家方の湛増は、源氏方の新宮那智へ攻め寄せる。

「巻第四 鼬之沙汰」

湛増は高倉宮が謀反をしたと平家に連絡をする。

「巻第六 入道死去」

湛増は平家方であったが、源氏に味方になったという。

「巻第九 忠度最後」

熊野そだち大力の薩摩守忠度は一ノ谷で討ち死にする。

「巻第十 横笛」

平維盛は、屋島からぬけて、熊野へと向かう。

「巻第十 熊野参詣」

維盛は本宮・新宮・那智を参詣する。

「巻第十 維盛入水」

維盛は那智浜の宮の沖で入水する。

「巻第十二 泊瀬六代」

新宮十郎行家は、熊野に落ちていこうとしたが途中で見つかって斃れる。


『源平盛衰記 上』

 (有朋堂文庫、1929(昭和04)年06月13日発行)

14世紀半ばまでに成立。『平家物語』の広本系の一異本であるが、近世以降独立した軍記として流布した。多くのエピソードが増補され、その分、文学的には評価が低い。

第三巻「法皇熊野山那智山御参詣事」

後白河法皇が三山を巡拝したあと那智山へ行き、花山法皇のことを知る。花山法皇

修行の際、天狗に妨害されたので安部晴明を召して魔類を狩籠(かりこ)の岩屋に祭らせる。

第三巻「熊野山御幸事」

各法皇の参詣の数をいう。

第十一巻「小松殿夢同熊野詣事」

平清盛の長子重盛が熊野参詣して、重盛の命を縮めても平家の人々の来世の苦患を助けてほしいと願う。

第十三巻「行家使節事」

平家追討の高倉宮の令旨を源義盛(新宮十郎行家)がもって各地の源氏を訪う。

第十三巻「熊野新宮軍事」

平家方の本宮の大江法眼が、源氏方の新宮那智へ攻め寄せ、新宮湊で合戦する。


『源平盛衰記 下』

 (有朋堂文庫、1929(昭和04)年07月13日発行)

第三十二巻「義仲行家京入事」

義仲行家の軍勢が京へ入り狼藉する。

第三十二巻「義仲行家受領事」

義仲に伊予守、行家に備前守を給う。

第三十三巻「依行家謀叛 木曽上洛事」

行家が義仲を誅する院宣を受けたと聞き、義仲は平家を捨て急いで京に帰る。

第三十三巻「行家與平氏室山合戦事」

行家が平家と合戦し敗れる。

第四十巻「維盛入道熊野詣 附熊野大峯事」

維盛が屋島をぬけ、熊野三山を巡拝する。

第四十巻「中将入道入水事」

維盛は那智の沖で入水する。

第四十三巻「湛増同意源氏 附平家志度道場詣竝成直降人事」

熊野別當湛増法眼は、頼朝には外戚の姨婿(をばむこ)也。年来(としごろ)致平家安隠祈 けるが、国中悉く源氏に志を運、湛増一人背ても後難あり、今更平家をすてん事も昔の(よしみ)を忘に似たり。如何あるべからんと進退思煩ふ。所詮非可及人力、可任神明冥覧とて、田部の新宮にて臨時の御神楽を始む。(中略)

第四十六巻「義経行家出都竝義経始終有様事」

頼朝の追手を避け、義経と行家は京を出る。


『太平記』

 (新宮市、『新宮市史 史料編上』、1983(昭和58)年03月01日発行)

14世紀末頃の成立。南北朝期の争乱を描いた歴史叙事文学として高く評価されている。

巻第五「大塔宮(オフタフノミヤ)熊野落事」

(略)京都ヲ落サセ給テ、熊野ノ方ヘ(オモムカ)給候(タマヒサフラヒ)ケンナル。三山ノ別当定遍(ヂャウベン)僧都ハ無二(ムニノ)武家方ニテ候ヘバ、熊野(ヘン)ニ御忍アラン事ハ難成(ナリガタク)覚候。(略)

巻第十五「将軍都落事薬師丸帰京事」

熊野山の薬師丸が将軍に命じられ院宣を受けに行く。

巻第十七「山攻事日吉神託事」

熊野の八庄司が軍勢を率いて上洛する。

巻第二十二「義助予州下向事」

熊野新宮の別当らが田辺より四国へ渡海する。


『義経記』

 (岩波書店、日本古典文学大系、1959(昭和34)年05月06日発行)

15世紀中頃の成立。源義経の一代を語った物語で、多くの伝説や物語がここを源泉としている。このページでは紹介していないが、熊野信仰を基底に据えた御伽草子に『弁慶物語』(15世紀中頃成立)がある。

巻第三「熊野の別当乱行の事」「弁慶生まるる事」「弁慶山門を出る事」「書写山炎上の事」「弁慶洛中にて人の太刀を奪ひ取る事」「弁慶義経に君臣の契約申す事」「頼朝謀反の事」「頼朝謀反により義経奥州より出で給ふ事」

熊野で生まれた弁慶が義経と出会い、その臣になるまでの話。

巻八では義経・弁慶が衣川で討ち死にをする。

ここでは「巻四 土佐坊義経の討手に上る事」の一部、熊野牛玉の場面を紹介する。起請文として文学作品に登場するのはこれが初見か。

(略)土佐、「斯様に人の無實を申つけ候はんに於ては、私には陳じ開き難く候。御免蒙り候ひて、起請を書き候はん」と申ければ、判官、「神は非禮を享け給はずと言へば、よくよく起請を書け」とて、熊野の牛王に書かせ、「三枚は八幡宮に収め、一枚は熊野に納め、今三枚は土佐が六根に収めよ」とて焼いて飲ませ、此上はとて許されぬ。


観世信光 『道成寺』

 (岩波書店、日本古典文学大系『謡曲集下』、1988(昭和63)年05月13日発行)

16世紀初までに成立。初恋に破れた女の激しい恨みと、その死後の執念の恐ろしさとを描いた能。『今昔物語集』巻第十四「紀伊国道成寺僧寫法花救蛇語第三」を能に脚色、江戸長唄『京鹿子娘道成寺』など後世に大きな影響を与えた。他にも『忠度』『舟弁慶』『安宅』など熊野関係の能がこの頃多く作られた。

(略)昔このところにまなごの荘司といふ者あり。かの者一人(いちにん)の息女を持つ、またその頃奥より熊野へ年詣でする山伏のありしが、荘司がもとを宿坊と定めいつもかの所に来りぬ、荘司娘を寵愛のあまりに、あの客僧こそ汝が妻よ夫よとなんどと戯れしを、幼心にまことと思ひ年月を送る、またある時かの客僧、荘司がもとに来りしに、かの女夜更け人静まつて後、客僧の閨に行き、いつまでもわらはをばかくて置き給うぞ、急ぎ迎へ給へと申ししかば、客僧大きに騒ぎ、さもあらぬよしにもてなし、夜に紛れ忍び出て、逃げ延びこの寺に来り、ひらに頼むと申ししかば、隠すべき所なければ撞き鐘を下ろしその内にこの客僧を隠し置く(略)


『をぐり』

 (岩波書店、新日本古典文学大系『古浄瑠璃 説教集』、1999(平成11)年12月15日発行)

五説教の一つ。16世紀半ばの成立。小栗判官照手姫物語として後世に大きな影響をもたらした。

つぼ湯 (略)「この者を一引き引いたは千僧供養、二引き引いたは万僧供養」と書き添へをなされ 土車を作り この餓鬼阿弥を乗せ申 女綱男綱を打つて付け お上人も車の手縄にすがりつき 「ゑいさらゑい」とお引きある(略)照天この由聞こし召し あまりの事に嬉しさに 徒歩やはだしで走り出で 車の手縄にすがりつき 一引き引いては千僧供養 夫の小栗の御為なり 二引き引いては万僧供養 これは十人の殿原達のお為とて(略)この餓鬼阿弥が胸札に書き添へこそはなされけり 「海道七か国に車引いたる人は多くとも 美濃の国青墓の宿 万屋の君の長殿の下水仕 常陸小萩といひし姫 さて 青墓の宿からの 上り大津や関寺まで 車を引いて参らする 熊野本宮湯の峰に御入りあり 病本復するならば 必ず下向には一夜の宿を参らすべし(略)

松は植へねど小松原 わたなべ 南部引き過ぎて 四十八坂長井坂 糸我峠や蕪坂 鹿瀬を引き過ぎ 心を尽すは仏坂 こんか坂にて車着く

こんか坂にも着きしかば これから湯の峯へは車道の嶮しきにより これにて餓鬼阿弥をお捨てある 大峯入りの山臥達は 百人ばかりざんざめいてお通りある この餓鬼阿弥を御覧じて 「いざこの者を熊野本宮湯の峯に入れて取らせん」と車を捨てて籠を組み この餓鬼阿弥を入れ申 若先達の背中にむんずと負ひ給ひ 上野原をうつ立ちて 日にち積りてみてあれば 四百四十四か日申には 熊野本宮湯の峯にお入りある

なにか愛洲の湯の事なれば 一七御入りあれば はや物をお申あるが 以上七七日と申には 六尺二分豊かなる 元の小栗とおなりある(略)



『狂言記』

 (岩波書店、新日本古典文学大系、1996(平成08)年11月20日発行)

室町末期の成立。「柿山伏」では、中世の頃、全国の山伏が大峯へ参詣するのが慣わしであった様子がうかがわれる。「薩摩守」では薩摩守忠度(ただのり)が登場するが、駄洒落で無賃乗車のことを「薩摩守」というのはこの狂言から始まる。

巻三・五「柿山伏」

山伏 次第 大峯(おおみね)葛城(かつらぎ)踏み分けて 我が本山に帰らん 「出たるは、大峯葛城参詣致し、唯今下向道(げこうだう)で御ざる、よきついでなれば、檀那回りを致そうと存ずる、(略)

巻三・六「薩摩守」

(略)僧「はれさて かたじけなふこそ御ざれ、してそれは、何と申ませうぞ 茶屋「あれへ御ざつたらば、まづ船乗らつしやりや、其時に「船賃(せんちん)」と言わふ時に、「平家の公達、薩摩守忠度ぢや」とおつしやれい 僧「はあ、でけました、ただ乗るによつて、ただのり、はあ、かたじけなふこそ御ざれ、かう参りまする(略)


『御伽草子』

(岩波書店、日本古典文学大系、1959(昭和34)年05月06日発行)

中世から近世初期にかけて、庶民のための読み物として現れたのが「物くさ太郎」や「和泉式部」などの物語で、これら二十三編をまとめ「御伽草子」として江戸時代に出版され多くの読者を得た。その中の分野に「本地もの」といわれる宗教小説があった。その中の代表的作品として「熊野の本地」(「ごすいでん」という名でも知られている)を次に紹介する。

「熊野の御本地のさうし」

昔、天竺(てんじく)摩訶陀(まかだ)国に、王と千人の后がいたが王子が生まれなかった。五衰殿(ごすいでん)におられる后が王の寵愛を受け王子を産むが、九百九十九人の后がさまざまな妨害をし、苦難を経て、ついに王と王子が日本の紀の国牟婁郡の熊野権現となられた。


安楽庵策伝著 『醒睡笑』上

 (岩波文庫、1986(昭和61)年07月16日発行)

1628(寛永05)年に成立した最古の笑い話集。

「巻之一 謂へば謂はるる物の由来 二三 なんのへちまの皮」

紀の国の大辺路小辺路は険しく、ために馬は骨ばかりだから皮を剥いでもなんの役にも立たないことを「へちまの皮(辺路馬の皮)とも思はぬ」という。大辺路の初出。

巻之五 きゃしゃ(きゃしゃごころ) 五 とつかわの入湯

さきの宮川殿、子息雄長老、頭痛のなほると聞き、十津川へ湯治し給ひし時、おとづれとて人をつかはし給ふたよりに、
 御養生の湯入りの心しづかなれやとつかはとして上り給ひそ

「巻之五 きゃしゃ(きゃしゃごころ) 十一 成下りたる身こそ辛けれ」

伊勢より熊野へ参詣の武士あり。おとなしの天神といふあたりにて、一木(いちぼく)の梅さき、ふかき匂ひのもれ来るを、供したる人夫とりあへず、
  音なしに咲きぞ初めける梅の花匂はざりせばいかで知らまし
といひけるを、主人聞き付け、馬上より、その者のいんしへを問へば、
  花ならばおりても人の訪ふべきになりさがるたる身こそ辛けれ
とよみし。いよいよ主、感にたへ、やがて侍になし、身近う情をかけつるとなん。

「巻之七 似合うたのぞみ 三 駄賃を損する気なら気楽」

熊野へ参詣する人あり。岩の懸路(かけぢ)手輿(たごし)とやらん、またあをだとやらんいふに、乗せて()かれたるが、谷のふかきこと、千尋もあらん見やり、「さても一足踏み損うたらば、五体は微塵(みぢん)にならんものよ」といひけり。かの二人の舁きたる者、「ここな人は、色々のくどきごとをいはるる。もし谷へ落したらば、今日の雇はれ賃を損にして取るまいまでに」。(略)
次に名取の老女に権現が和歌(道遠し程もはるかにへだたれり思ひおこせよわれも忘れじ)で告げる話がある。
『新古今和歌集 神祇』『袋草紙』(二・三句目が、年もやうやう老いにけり、と変わっている)『謡曲護法』(『袋草紙』と同じ和歌)と同じ話。

「巻之七 謡 四 熊野の一らくという在所」

信長公へ、熊野新宮方よりの使者寂静坊(じゃくじょうぼう)といふが参り、御咄あるみぎり、連一出仕しけり。「この座に新宮の使あり。何にても物語をせよ」と御諚あるに、追付けて連一、「さて熊野に一らと申す在所の候や」。(略)「熊野の事はおきぬ。紀州一国に一らといふ所なし」と色をそこなひ争ふ時、「二人静に、『一栄一らくまのあたり』と候が、異な事や」と申して大笑ひになせり。(二人静は能楽の曲名で、静御前の亡魂が菜摘女に憑いて昔語をする。「まことに一栄一楽、まのあたりなる浮世して」を踏まえている)

「巻之七 謡 十 海辺に腹立ち」

熊野侍は、盃をさす段には、必ず謡でさすが法なり。(略)祝言のとき謡曲の文句を勘違いして、座敷が白けた、という話。


『仁勢物語 下』

 (岩波書店、日本古典文学大系『仮名草子集』、1975(昭和50)年04月10日発行)

1639(寛永16)年頃の成立。「伊勢物語」のパロデイで、本文をもじって面白おかしく話を作っている。

(八二)

  をかし、維盛卿と申公卿をはしましけり。(略)此餅を食ひんとて、よき處を求め行くに、岩田川といふ所に至りぬ。君もむまがりて、多く参る。君宣ひける。「高野を出でゝ、岩田川の邊に至るといふを題にて、歌詠みて、餅は食へ」と宣ふければ、かの與三兵衛詠みて奉りける。

  買ひ食ひし棚ざらし餅固からん岩田河原で我は食ひけり(略)
主の亭主呼びて風呂へ入参らす。十一日の月も隠れなんとすれば、かの兵衛詠める。

  垢無きにまだきも風呂へ入ぬるか山水さして入れずもあらなん
君に替り奉りて、石童、

  をしなべてこれは平の維盛と髪の無ければ誰も知らじを

(一〇一)

  をかし、左兵衛の(かか)なりける、蟻腰(ありごし)の雪女と云ふ有けり。(略)(もと)より酒の事は飲まざりければ、すまひけれど、強て飲ませければ、かくなん

  酒(がめ)(はた)に竝べる人を多み蟻の熊野へ参るなりかも
「などかくしも詠む」と云ければ、「大酒の酔加れる盛に罷りて、藤絡げの酒林を思て詠める」と云ひければ、皆人、げにもと思ふけり。


浅井了意著 『伽婢子』

 (岩波書店、新日本古典文学大系、2001(平成13)年09月20日発行)

1666(寛文06)年発刊。江戸初期の怪異小説。

「巻之二 (一)十津川の仙境」

十津川温泉に湯治に行き、帰りにさらに奥山に入りこんでついに平維盛が隠れ住んでいる場所に行きつく。すでに三百七十年余り経っていることなどを語り合う。


浅井了意著 『北条九代記』

 (有朋堂文庫、1929(昭和04)年04月13日発行)

1675(延宝03)年出版。北条氏九代の出来事を年代順に記した作品。『吾妻鑑』から抜書きして作られている。

巻第四「尼御臺政子上洛付三位に叙す」

建保六年二月四日、上洛のついでに紀州熊野へ参詣する。

巻第七「下河邊行秀法師補陀洛山に渡る付惠蕚法師」

(略)智定房(ちぢやうぼう)と名を付き、暫く山頭に籠りて行ひしが、熊野の那智の浦より舟に乗て南海補陀洛山(ふだらくせん)にぞ渡りける。屋形舟に入りて後に、外より屋形の戸を釘付にし、四方に窓もなし、日月の光を見ることもなく、燈火(ともしび)(かすか)にし、食物(しょくぶつ)には、栗栢(くりかや)少しづつ命を助け、一心に法華経を読誦し、三十餘日にして到著す(略)

第十「改元付蒙古の使を追返さる竝一遍上人時宗開基」

一遍上人が熊野で悟りを開き時宗を開いた。


井原西鶴 『好色一代男』

 (岩波書店、日本古典文学大系『西鶴集上』、1957(昭和32)年11月05日発行)

1684(貞享01)年の作品。井原西鶴の浮世草子の最初の作品。この作品により主人公の世之介は江戸時代を代表する好色男となった。

「巻三 木綿布子もかりの世」

(略)勧進比丘尼声を揃てうたひ来れり。是はと立よれば、かちん染の布子に、黒綸子の二つわり前結びにして、あたまは何國にても同じ風俗也。元是は嘉様の事をする身にあらねど、いつ比よりおりやう猥になして、遊女同前に相手も定ず、百に二人といふこそ笑し。「あれは正しく江戸滅多町にてしのび、ちぎりをこめし清林がつれし米かみ。其時は菅笠がありくやうに見しが、はやくも其身にはなりぬ」とむかしを語る。


井原西鶴著 『好色一代女』

 (岩波書店、日本古典文学大系『西鶴集上』、1957(昭和32)年11月05日発行)

1686(貞享03)年の作品。西鶴の代表作の一つ。下記の部分は、本来の比丘尼から遊女の如くなってしまった歌比丘尼の様子を描いた資料である。

「巻三 調謔哥船(たはぶれのうたふね)」哥

(略)川口に西国船のいかりおろして、我古里の嬶おもひやりて、淋しき枕の浪を見掛て、其人にぬれ袖の哥びくに(とて)(この)津に入みだれての姿舟、(とも)に年がまへなる親仁、居ながら(かぢ)とりて、比丘尼は大かた浅黄の木綿布子に、竜門(りゅうもん)中幅帯(ちうはばおび)まへむすびにして、黒羽二重(はぶたえ)のあたまがくし、深江(ふかえ)のお七ざしの加賀笠(かががさ)、うねたびはかぬといふ事なし。 絹のふたのゝすそみじかく、とりなりひとつに(こしら)へ、文臺(ぶんだい)に入しは熊野の牛王(ごおう)酢貝(すがい)、耳がましき四つ竹、小比丘尼(こびくに)に定りての一升びしやく、勧進(くはんじん)といふ声も引きらず、はやり節をうたひ、それに気を取、外より見るもかまはず元ぶねに乗移り、分立て後、百つなぎの銭を袂へなげ入れけるもおかし。 (略)高津の宮の北にあたり、高原といへる町に、軒は笹に葺て幽なる奥に、此道に身をふれしおりやうをたのみ、勤めてかくも浅ましくなるものかな、雨の日嵐のふく日にもゆるさず、かうしたあたま役に、白米一升に銭五十、それよりもしもづかたの子共にも、定て五合づゝ毎日取られければ、をのづといやしくなりて、むかしはかゝる事にはあらざりしに、近年遊女のごとくなりぬ。(略)


井原西鶴著 『日本永代蔵』

 (岩波書店、日本古典文学大系『西鶴集下』、1960(昭和35)年08月05日発行)

1688(貞享05(元禄01))年発行。西鶴の町人物の最初の作品。

「巻二 天狗は家名(いゑな)風車(かざぐるま)

熊野太地では、工夫して捕鯨用の網をこしらえ、それで鯨を取り逃がすことがなくなり、村人は豊かになった。


近松門左衛門著 『主馬判官盛久』第四 びくに地ごくのゑとき

 (岩波書店、『近松全集』第一巻、1985(昭和60)年11月20日発行)

1688(貞享05)年頃成立。熊野比丘尼の絵解きの様子が具体的にわかる作品。


米沢彦八著 『軽口御前男』

 (岩波書店、日本古典文学大系『江戸笑話集』、1975(昭和50)年07月30日発行)

1703(元禄16)年発行。大阪で辻話の名人といわれた著者の代表作。落語の元となった話が多く載っている。

「十津川の料理」

紀州十津川の温泉は其しるしありとて、ある人湯治せられしに、一まはりにて、足がひきよいぞと、そろそろ湯元の様子、あたりの景気ながめ歩きしに、とある山際、(にへ)かへる湯の中に、見事なる鯉鮒たくさんなり。山中(さんちゅう)の事にて肴にはかつへたり。幸と取て帰り、醤油のあんばいして(にへ)立ところへ彼魚(かのうを)を入ければ、いままで弱りし鯉鮒ぴちぴちとはね出、たけば(たく)ほど鍋のうちをちらりちらりとあそぶ体、「是はふしぎ、喰れはせまい」としばし思案し、汲立(くみたて)の井戸水に生醤油かげんしかけ、彼魚を入ければ、たはたはたはと煮えて、其味どふもいへぬげな。


近松門左衛門著 『けいせい反魂香』中 三熊野かげろふすがた

 (岩波書店、『近松全集』第五巻、1986(昭和61)年07月18日発行)

1708(宝永05)年頃上演。江戸時代の演劇界を代表する作家、近松門左衛門の浄瑠璃。

(略)あすかのやしろはまのみや。王子々々は九十九所。百に成ても思ひなき世はわかのうら。こずゑにかゝるふぢしろや。いはしろとうげしほみ坂。かきうつすゑは残る共我は残らぬ身と聞ばいとしやこそ我がつまの。涙にくれてふですて松の。しつくは袖にみつしほの。しんぐうのみやゐかうかうと。出じまによするいそのなみ。きし打なみはふだらくやなちは千手。くはんぜをん。いにしへくは山の。ほうわうの。きさきのわかれを。恋したひ。十ぜんの御身をすて高野西国くま野へ三ど。(略)なむ日本第一霊験(りやうげん)。三所権現とふしおがみ。かうべをあげてめをひらけばなむ三宝。さきに立たる我妻はまつさかさまに天をふみ。両手をはこんであゆみ行。はつとおどろき是なふ浅ましの姿やな。誠や人の物語しゝたる人のくま野まふでは。あるひはさかさまうしろむきいきたる人にはかはると聞。立居に付てこよひより心にかゝること有しが。扨はそなたはしんだかと。こぼしそめたる涙よりつきぬなげきと成にけり。(略)


『三十三間堂平太郎縁起 祇園女御九重錦(ぎおんにょうごここのえにしき)

 (国書刊行会、『叢書江戸文庫 豊竹座浄瑠璃集三』、1995(平成07)年06月25日発行)

1760(宝暦10)年、大阪豊竹座で上演。伐り倒されかかった楊枝(ようじ)の薬師の柳を助けた縁で、柳の精の女と平太郎が契ってみどり丸が生まれる(初段)。院の頭痛平癒のため柳で三十三間堂が建立されることになり(二段)、母である柳の精が子供と別れ、平太郎親子の木遣り音頭で曳かれていく(第三段)。熊野の神が平太郎の信心を讃える(第四段)。平太郎が父の敵を討つ(第五段)。

1821(文政04)年に、『三十三間堂(むなぎの)由来』と改題され、第三段「平太郎住家(へいたろうすみか)より木遣音頭の段」が人形浄瑠璃で現代でもよく上演される。


上田秋成 『雨月物語』

 (岩波書店、日本古典文学大系『上田秋成集』、1959(昭和34)年07月06日発行)

1776(安永05)年の出版。江戸中期を代表する文学作品。その中でも名作の一つに数えられるのが新宮を舞台にした「蛇性の婬」である。三輪崎に住む主人公は美しい女性と恋愛したが、その女性は実は蛇であって、逃げ惑うがどこまでも追いかけてくる。最後は法力により蛇を退治する話。

巻之四「蛇性の婬」

いつの時代なりけん、紀の国三輪が崎に、大宅(おおや)の竹助といふ人在けり。此人海の幸ありて、海郎(あま)どもあまた養ひ、(略)此豊雄(とよを)、新宮の神奴(かんづこ)安倍の弓麿を師として行通ひける。

御手洗海岸 長月下旬(ながつきすゑつかた)、けふはことになごりなく和ぎたる海の、(にはか)東南(たつみ)の雲を(おこ)して、小雨そぼふり来る。師が(もと)にて(おほがさ)かりて帰るに、飛鳥の神秀倉(かんほぐら)見やらるゝ(ほとり)より、雨もやゝ頻なれば、其所(そこ)なる海郎(あま)が屋に立よる。あるじの老はひ出て、「こは大人(うし)弟子(をとご)の君にてます。かく(あや)しき所に入せ給ふぞいと(かしこ)まりたる事。是敷て奉らん」とて、 (略)()の方に麗しき聲して、「此軒しばし惠ませ給へ」といひつゝ入来るを、(あや)しと見るに、年は廿(はたち)にたらぬ女の、顔容(かほかたち)髪のかゝりいと(にほ)ひやかに、遠山ずりの色よき(きぬ)着て、 (略)豊雄見て、(おもて)さと打赤めて恥かしげなる(さま)(あて)やかなるに、不慮(すヾろ)に心動きて、且思ふは、此(あたり)にかうよろしき人の住らんを今まで聞えぬ事はあらじを、此は都人の三つ山詣せし(ついで)に、海(めづ)らしくこゝに遊ぶらん。(略)


小松屋百亀著 『聞上手』

 (岩波書店、日本古典文学大系『江戸笑話集』、1975(昭和50)年07月30日発行)

1777(安永06)年、江戸で発行。軽妙洒脱な語り口で気のきいた小話集。三人の比丘尼の絵が載っている「比丘尼」と大峰修験が修行よりも物見遊山になりつつある様子がわかる「富士山」を紹介する。

「比丘尼」

神田へんにて比丘尼が二三人ゆきあひて、つれ立はなして行をきくニ、「今日わつちやの、通り町でゑゝ女を見やした。ソレハソレハとんだ器量での。島ちりの小袖に紫うらを付ての、帯は黒繻子(じゅす)幅廣(はばひろ)路考(ろこう)にむすんでの。そして髪は」といふて手をあげ、「わが身でなし、深川本多さ」。

「富士山」

若い衆大勢よつて御山参りのはなしに、「おらは越中の立山へいつて見たい」「おらは又湯殿も大峰も登つて見たけれど、マアそれより、三国一の名山といへば、駿河の富士へ登つて見たい」「ナアニおきねい。上つて能ければ、西行が下にはおらぬ」