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2010年9月1日 更新 印刷用ページ印刷用ページを開く
【Ⅲ】 交通機関の発達と街の変化~ 新宮鉄道開通と駅前本通り、 丹鶴町の出現

明治時代から大正時代中期まではまだ駅前本通りや丹鶴町はなく、 新宮の目抜き通りの様子は現在とは大分違っていた。 それらがほぼ現在のようになるのは、 大正末から昭和初めにかけてのことと思われる。

新宮をめぐる交通輸送状況等の変化

新宮の町はもともと本町 ・ 船町、 仲之町、 横町 ・ 馬町 (いまの大橋通り)、 掘地 ・ 初野地、 取出 ・ 新鍛冶町 (いまの千穂地域) など西北部と、 池田や阿須賀、 蓬莱町など北部一帯を中心に開けた町であった。 それは熊野川を使っての材木その他の物資の流通や、 池田港、 三輪崎港を窓口とするモノや人の往来と関係しているだろう。
主要道路は、 三輪崎と新宮を結ぶ道路 (広角から橋本を通って新宮高校の旧正門前を通過する細い道。 人力車もここをよく走った。) と熊野地と新宮を結ぶ道路 (仲之町東口から日和山の裾 〈オークワの中を貫く細い道〉 を走り、 伊佐田に抜ける道) であった。
大正 2年 (1913年)、 新宮 ~ 勝浦間に (軽便鉄道の) 新宮鉄道ができてから、 この状況は大きく変化してくる。 新宮への窓口となった勝浦が伸びてくるとともに、 三輪崎は衰微。 広角越えの道路はその後も利用されるとはいえ、 それほど賑やかでなくなった。

仲之町

現在の仲之町。明治の頃にはまだ武家屋敷が多く残っていたらしい。

新宮駅と新宮 ~ 熊野地間幹線道路整備

上熊野地の現在地に新宮駅が生まれた時 (新宮鉄道は熊野地駅を迂回していた関係で、 当時の駅舎は現在のように南北向きでなく、 東西向きだったらしい)、 近くには徐福の墓と新宮高等女学校 (明 39創立) が見える以外、 何もなかったはずである。
駅ができた以上、 市街地とそこを結ぶ広い道路を作る必要があった。 その道路として、 駅の西側、臥龍山の切通しから取出、 掘地、 馬町へ通じるものも考えられたが、 実際に実現したのは駅から西北に向かい、 仲之町、 本町方面に通じるものであった。
駅の西北方は緩やかな丘陵で段々畑だったというが、 そこに広い道をつける。 また日和山沿いの小道の東側には、 丹鶴城の外濠約 4,000坪があったが、 これを埋め立てる。 埋め立て工事は大正 8年に始まり、 同 11年 (1922年) に完工した。 こうして駅と市街地とをつなぐ駅前本通りと丹鶴町が生まれ、 新宮 ~ 熊野地間の幹線道路として活用されることになった。

新宮駅前

新宮駅前にある熊野交通。新宮鉄道時代の新宮駅はこの熊交の社屋付近にあったのではないかと言われる。

丹鶴町

現在の丹鶴町。
その大部分は城の外濠を埋め立てて、大正後期に出来上がった。

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