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2010年9月1日 更新 印刷用ページ印刷用ページを開く
【Ⅳ】 丹鶴城趾

丹鶴姫と新宮十郎行家

12世紀半ばの武将 ・ 源為義 (鎮西八郎為朝の父。 保元の乱のとき崇徳上皇方に立って敗れ、 1156年、 殺された) には新宮に (院の御幸警護で熊野に来た時になした) 2人の子がいた。 丹鶴姫と新宮十郎行家の姉弟 (鎌倉幕府を開いた源頼朝の叔母、 叔父にあたる) がそれで、 2人はお城山の南麓にもあった熊野別当の屋敷で育った。
丹鶴姫は別当 ・ 行範の妻となって、 その邸がここにあったことからたつたはら (田鶴原。 いまの新宮郵便局あたり一帯をさすか) の女房と呼ばれた。 ある時、 平家方に立つ田辺の (のちの別当) 湛増が (源氏方の) 新宮の虚をついて新宮に攻め入ったとき、 たつたはらの女房 (つまり丹鶴姫) は新宮軍をよくまとめ、 激励して田辺軍を敗走させたという。
新宮十郎行家は、 以仁王の令旨を源頼朝、 源義仲ら各地の源氏に伝え、 平氏討伐の挙兵を促したことでよく知られる。 義仲と結んだがのち対立、 平氏滅亡後は義経と結んで頼朝と対立、 頼朝方によって 1186年に殺された。
丹鶴姫にまつわる言い伝えについて、 佐藤春夫は 『わが生い立ち』 (1924年) の中でこう述べている。

「丹鶴城主の姫君の丹鶴姫は子供が好きださうで、 夕方、 子供がひとりでそのあたりを通つてゐると、 緋の袴の姿で丘の上へ現れて来て扇で子供をまねく。 招かれた子供は次の日の朝になると死んでゐるといふのである。 その丹鶴姫の使いが黒い兎で、 子供の通る道の前をひよいと横切ることがある。 やつぱりそれを見た子供は死ななけりやならないともいふ。 黒い兎なら暗がりのなかでは見えないかも知れない。
自分の見ないつもりのうちに、 もしや黒い兎をみたのぢやないだらうか 私はそんな空想に怯えたこともあつた。 丹鶴姫といふのはどんな人だか知らないが、 城山の向ふの丘には一つの小さな社があつて、 そこを皆が丹鶴姫の祠だと言つてゐる・・・・・・」

丹鶴城の城跡の写真

17世紀初め、浅野氏の代に築造され始め、17世紀半ば、水野氏の代に完成をみた新宮城(丹鶴城)の城跡。
 明治8(1975)年に建物が全部取り払われて以来、城跡だけとなっている。

丹鶴姫の碑の写真

丹鶴姫の碑

丹鶴城と新宮領主 ・ 水野家

徳川家康の従兄弟筋にあたる水野家は、 紀州藩の付家老で江戸に詰め、新宮領三万五千石を領したが、熊野に産する木材、 木炭等を支配して大いに繁栄、 その実力は十万石以上であったといわれる。その居城 ・ 丹鶴城は沖見城ともいわれるように、 海上交通の要衝にあって監視の任に当たっていたのは勿論であるが、 近年城の北、 熊野川沿いに大掛かりな炭納屋群が発見されたことによって、 この城は水野家の活発な経済活動の拠点になっていたことが明らかになった。 (新宮領からは年10 ~ 30万俵の炭 〈備長炭〉 を積み出し、 江戸の年間消費量 100万俵中のかなりの部分を占めたという。 水野の殿様が江戸で一時 “炭屋” とあだ名されていたのも頷けるような気がする。)
幕末、 大老 ・ 井伊直弼と結んで暗躍、 幕政に権力をふるおうとしたとされる水野忠央(ただなか)は、 一面博学でまた進取の気象に富み、 (水戸光圀の 「大日本史」 、 塙保己一の 「群書類從」 と並び称され、 校訂が厳密で版刻が精美なことで有名な) 「丹鶴叢書」 171巻を刊行したのを始め、洋式軍隊を編成し、 わが国ではきわめて早く洋式の船 「丹鶴丸」 を作ったことでも知られる。 (吉田松陰は 「水野奸 〈かん〉 にして才あり、 世すこぶるこれを畏 〈おそ〉 る ・・・・・・ また一時の豪なり」と評したという。)

与謝野寛の歌碑

「高く立ち秋の熊野の海を見て誰ぞ涙すや城のゆふべに」

明治 39年 11月、 与謝野寛が (北原白秋、 吉井勇、 茅野蕭々を同伴して) 初めて来新した時、詠んだ歌を刻んでいる。 揮毫は画家 ・ 村井正誠。 昭和 61年に建立された。
(明治 43年初版の与謝野寛の歌集 『相聞 (あいぎこえ) 』 には、
“海を觀る憂きたらず喜び來誰ぞ涙すや城のゆふべに 〈丹鶴城に登りて。〉”
とある。 ところが佐藤春夫の記憶では上記の “高く立ち ・・・・・・ ” になっており、 この歌碑にはそちらが用いられている。)

与謝野寛の歌碑の写真

与謝野寛の歌碑

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