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2010年9月1日 更新 印刷用ページ印刷用ページを開く
【Ⅴ】 下本町 ・ 上本町

佐藤春夫養育の病院 ・ 跡地

佐藤春夫が幼少時から新宮中学卒業まで暮らした熊野病院の跡地。 裏側が丹鶴城趾につながり、表のコンクリート階段には人力車昇降用の 2本の道がついていた (春夫は明治 40年代初め、 新宮最初の自転車に乗り、 この坂道を駆け降りたという )。
将来に対する “不安” や “焦燥” 、 “倦怠” などをモチーフにして人間の内面的葛藤を精緻に描き、日本近代文学に一新紀元をもたらしたとされる名作 『田園の憂鬱』 を書き上げたのもここであったといわれる。

佐藤春夫の筆塚

春夫没後 2年目の昭和 41年に春夫愛用のモンブランの万年筆や毛筆の塚を建て (揮毫は堀口大学)、 千代未亡人と大学を迎えて除幕式と筆供養を行った。 以後筆供養は毎年 11月 3日の文化の日に行われる。
春夫は明治 43年、 上京後すぐに (与謝野寛の紹介で) 堀口大学と知り合い、 一緒に慶応大学予科文学部に入学して以来の無二の親友。 「私は大学には通わなかったが、 堀口大学という大学を卒業しているから仏文学に明るい」 と春夫は言い、 春夫に先立たれた大学は、 シャム兄弟(結合連身の双生児) の片われの身の寂しさ、 嘆きを詩に託した。

佐藤春夫の筆塚の写真

佐藤春夫の筆塚

新宮市民会館ホール壁画と村井正誠

(旧 ・ 丹鶴城大手前であり、 八幡山と呼ばれていたこの地には、 大正 5年、 西村伊作設計の 「新宮公会堂」 が御大典記念事業として建てられた。 公会堂は戦後、 昭和 21年から新宮市役所として便用されていたが、 昭和 38年に市役所が春日に新築、 移転したので取り壊され、 そこに市民会館が建設された。)
1 階ホール正面に村井正誠 (昭 41) 制作のモザイク壁画がある。
岐阜県大垣市生まれの村井は、 眼科医の父が新宮に開業したことから丹鶴小学校、 新宮中学に学ぶ。 絵画を愛好する西村伊作の感化を受け、 文化学院に進学、 昭和 3年 (1928年)、同大学部1期生として卒業すると同時に渡欧、 マチス、 ブラック、 モンドレアンらに触れて抽象画の世界に入り、昭和 7年帰国。 以後、 友人山口薫らとともに新時代洋画展開催 (昭 9)、 自由美術家協会創立 (昭 12)、 モダンアート協会創立 (昭 25)。 日本抽象絵画の草分けであり、 第一人者である村井は、文化学院や武蔵野美術大学の教授を勤めるかたわら、 また熊野美術家協会の審査員も長く勤め、後進の育成、指導に当たった。
昭和 45年 (1970年) に新宮市名誉市民となり、 和歌山県文化賞も受賞。 平成 9年 11月、 母校 ・新宮高校の玄関壁画 「新宮の山と海と空」 を制作、 除幕。
旺盛な制作意欲をもって活躍していたが、 平成 11年 (1999年) 2月、 93歳で逝去。
現在その作品の多くは世田谷美術館に保存されている。

村井正誠制作の壁画

(市民会館大ホール) 村井正誠制作の壁画「熊野」

丹鶴小学校正門

東くめ、 佐藤春夫、 村井正誠、 (後述の) 畑中武夫など数多くの学者、 芸術家を生み出してきた丹鶴小学校 (旧 ・ 新宮第一尋常小学校)。 朝と昼の始業時間を知らせていた大太鼓 (もともとここにあった旧 ・ 藩庁のもので、 役人たちの出仕、退庁の時間に鳴らされていたらしい) があることでも知られる。
現在の同小学校のところには、 明治 28年開校の新宮高等小学校があり、 太平洋戦争後まで 50年近く続いていた。
一方、 丹鶴小学校は最初、 新町、 現在のNTTの西側一帯にあった。 佐藤春夫の実家 (熊野病院) の斜め前にあったわけで、 『わんぱく時代』 (昭33年) の冒頭に、 「太鼓を聞いて飛び出せば、中庭に整列して先生に教室へみちびかれて行く級友たちのざわめきのなかへすべり込むのにまにあつた」 とある通りの近さだった。
同小学校の石積みの正門は、 西村伊作が (文化学院創立と同年の) 大正 10年 (1911年)、長女 ・ あやの卒業記念に制作、 寄贈。
しかし同小学校は、 昭和 21年暮れの南海大地震のとき講堂だけ残して焼失 (その講堂は公会堂と市立図書館としてその後一時活用された) したので、 同 24年 4月、 新宮高等小学校跡地に移転、 新築。 その際にこの正門もこちらに移設された。

畑中武夫に関する説明板

上本町にある畑中武夫に関する説明板

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