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2010年9月1日 更新 印刷用ページ印刷用ページを開く
【Ⅵ】 船町 ・ (川原町)

【Ⅵ】 船町 ・ (川原町)

1892 (明25) 年 4月9日、 佐藤春夫がこの地に生まれたとき、 父 ・ 豊太郎が詠った句、 「よく笑へどちら向いても春の山」 も刻まれている。

佐藤春夫誕生の地の碑の写真

佐藤春夫誕生の地の碑

大石誠之助邸跡

クリスチャンであった大石誠之助 (1867~1911) は、 京都 ・ 同志社に在学後渡米、 苦学してオレゴン州立医科大学に学び、 明治 29 (1896) 年、 船町で医院開業。 伝染病研究のため一時インドに留学 (明 32 ~ 34)。 船町に 「太平洋食堂」 を開いて (明 37) 新宮に初めて西洋料理を紹介したり、 牧師 ・ 沖野岩三郎と協力して仲之町に 「新聞雑誌縦覧所」 を開設したり (明 39)、 雑誌 「サンセット」 を発刊したり (明 43) する一方、 「平民新聞」 「熊野新報」 「熊野実業新聞」 「牟婁新報」 など各地の新聞によく投稿し、 家庭や学校や社会の問題を様々に論じた。 インド留学以来、 社会主義思想にも関心をもつようになった大石は、 幸徳秋水、 堺利彦らとも親交。
明治 43年 5月下旬に捜索が始まった大逆事件に、 大石は他の熊野の人々 5名とともに連座させられ、 有罪とされて、 翌 44 (1911) 年 1月 24日、 死刑に処せられた。 (この時、 成石平四郎も死刑となり、 高木顕明、 峰尾節堂、 崎久保誓一、 成石勘三郎の 4名は無期懲役となっているが、 最近では、 大石を含めた熊野グループ 6名の冤罪は明らかで、 判決を不当とする考え方が一般化しているといわれる。)

大石邸を示す碑

上本町にある大石邸を示す碑。矢印で100メートル奥を指しているが、正確な場所はいまのところ不明なのではないかと思われる。

川原家と川原町

熊野川に船を浮かべての交通や運送が盛んであったころ、 新宮の川原には家(川原家)が建ち並び、 街 (川原町) を形成していたことはよく知られている。
川原家とは、 その建物の各材をすべてはめ込み式にしていて、 釘 1本も使っていないもの。 これは、 年に 5 ~ 6回あるといわれる不時の洪水の際、 短時間で家を折り畳み、 高い場所に一時避難し、 水が引けばまたもとの場所に戻って家を建てる必要から生まれたきわめて簡便な住宅で、全国でここだけにしかなかったもの。 8畳の建物が基本で、 継ぎ足せばさらに広いものにもできる。よくプレハブ住宅の原型のように言われるが、 プレハブのように専門業者によって組み立て、 解体されるものではなく、 川原家はずぶの素人が建てたり、 畳んだりするものだから、 プレハブと川原家とは性格的に似て非なるものといえよう。
川原家はすでに奈良時代末期 ( 8世紀末) からあったように史料には出てくるが、 街をつくるほどになるのは 17世紀半ば、 つまり江戸時代初期からであろう。
川原町が最も栄えたのは明治末期から大正初期で、 300軒近くあったといわれる。
やや下り坂の大正中期から昭和初期でも 120~30軒位あり、 宿屋、 米屋、 酒屋、 雑貨屋、 鍛冶屋、 飯屋 の順に多く、 魚屋、 床屋、 銭湯もあった。
「かわらよいとこ 三年三月 出水さえなけりゃ 倉が建つ」 ・・・・・・ 新宮節の一節にこうあるように、 川原町での商売は活気に溢れていたのではないかと思われる。
しかし、 そのうち、 熊野大橋が開通し (昭 10)、 新宮 ~ 本宮間の川丈バスが営業を開始し (昭14)、 プロペラ船発着場も新宮川原から宮井に移って新宮 ~ 宮井間がバス連絡になる (昭 19)など、 交通 ・ 輸送路としての熊野川の役割が減ずるとともに、 川原町の意味はなくなっていく。戦時中の 18年にはもう 3 ~ 4軒だけとなり、 戦後の 25年、 最後の 1軒 (鍛冶屋) も家を閉じて、約 300年間続いた川原町が完全に消滅した。

新宮高校建設工学科が復元した川原家

新宮高校建設工学科が復元した川原家。入口には開き戸が、窓には障子が入るようになっている。

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