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2018年5月2日 更新 印刷用ページ印刷用ページを開く
新宮城跡の紹介

 新宮城は、紀伊半島の南端に近い熊野川河口に築かれた近世城郭で、別名、丹鶴城とも呼ばれています。平成15年(2003)に「新宮城跡附水野家墓所」として国史跡に指定されています。

新宮城跡の概要

 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの後、紀伊国に入国した浅野幸長は、重臣である浅野忠吉に新宮の地を分地し、翌年に新宮城の築城を開始しました。元和元年(1615)には一国一城令により一旦は廃城となりますが、元和4年(1618)に再び築城が認められます。しかし、元和5年(1619)に幸長が広島に転封になるのに伴い、忠吉は備後三原城へと移りました。
 浅野氏にかわり紀州藩祖の徳川頼宣が入国し、新宮城には付家老である水野重仲が入りました。重仲は、徳川家康の母方の従弟にあたり、幼少より家康に仕え、慶長7年(1602)には、頼宣の後見を命じられた人物で、その後、水野家は10代にわたり新宮領を支配しました。
 重仲は、新宮入部後ただちに築城を継続し、寛永10年(1633)、2代重良の時に完成したとされます。その後は、度重なる地震や台風といった災害により石垣、櫓などが損壊し、何度も普請・作事が繰り返され、明治4年(1871)の廃藩置県とともに城としての役目を終え、城内にあったすべての建物が取り壊されました。
 新宮城跡の構造は、熊野川右岸の独立丘陵丹鶴山を中心に縄張した平山城で、山上に本丸、天守台、出丸、鐘ノ丸、松ノ丸、南西側山麓に二の丸や大手門、北側山麓に水ノ手郭を配置した総石垣の城です。北方の熊野川が天然の遮断施設となることから城全体を巡る堀はないものの、南側に溜池状の堀を設けていました(伊佐田池)。本丸をはじめ、鐘ノ丸、松ノ丸には枡形虎口があり、各郭が独立した形態となっています。
 石垣は、熊野川流域で産出する流紋岩(花崗斑岩)を用いて、積み方は切込接ぎが主となっています。本丸や鐘ノ丸には野面積みや打込接ぎで積まれた箇所があり、浅野期の石垣の名残であるとされています。
 新宮城跡の特徴としては水ノ手郭の存在があり、発掘調査では約20棟の炭納屋と船着場が確認されています。熊野川流域の木炭を水ノ手郭に集積し、水運により江戸へと運んでいました。当時、木炭は専売制で、水野家の財政を潤し、知行高3万5千石以上の財力を有していました。
 新宮城跡の西側敷地には新宮下本町遺跡が広がっていますが、発掘調査では中世期の港湾遺跡が確認され、新宮の地が東西日本を結ぶ交易拠点であったことが明らかとなっており、水ノ手郭は江戸時代以降も豊富な山林資源と水運力により栄えた新宮の町の特徴を示す貴重な遺構です。

続日本100名城スタンプラリー実施中!

新宮城は平成29年4月に続日本100名城に選定されました。

<スタンプ設置場所> 新宮市立歴史民俗資料館
           新宮市阿須賀1-2-28
          [開館時間] 9:00~17:00
          [休館日] 月曜日(祝日の場合は翌日)、祝日の翌日、年末年始

PDFファイルはこちら
新宮城の地理的環境
ファイルサイズ:138KB
新宮城の歴史
ファイルサイズ:166KB
新宮城のあゆみ(略年表)
ファイルサイズ:57KB
新宮城の位置と範囲
ファイルサイズ:738KB
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文化振興課 文化財係
説明:文化財、世界文化遺産、熊野学など
住所:647-0011 和歌山県新宮市下本町2丁目2番地の1
TEL:0735-23-3368